『第2会議室にて』12

oshikun2010-04-12

 2008年7月10日⑧
 委員長の中西信也は午後11時に自宅に着いた。会社ではまた雑誌広告に間違いがあって、印刷会社とのやり取りに時間を取られてしまった。組合執行部の話合いのあと、彼はまたタイムカードを押して仕事に戻ったのだ。編集部と違って彼の部署にはまだ残業代が出ていた。だから組合の会合があるときは、一旦はタイムカードに打刻している。それから2時間ほど仕事をして会社を出たのは10時頃、また事務セクションには何人か残っているが、ほんとうに仕事をしているのかどうかはかわらない。
 会社の残業時間は40時間までと制限されているが、中西は毎月その倍ほど残業をしている。つまり残業手当は法令で規定された半額ほどだ。それでもこの会社では年配にあたる、48歳の中西には、家のローンの支払いの助けになった。ただ毎日遅く帰ることが習慣化されているのはいいことではない。
 会社がカーライフ出版と合併されると、さらに条件は悪くなるといわれている。組合としてこれにどう対応していったらいいのか。執行部に入った福田は、抜けた石川よりはいいように思えたが、実際のところはまだわからない。
 そもそもあと半年で合併だというのに、こちらには何の情報もない。今日は福田が提案した質問状の中身を考えるのには疲れ過ぎている。数ヶ月前に執行部委員長に推挙されたときの戸惑いを、いまさらのように思い出す。なぜあのとき自分はそれを許諾してしまったのか。いや、自分には護るべきものがある。そのために必要なのだ。しかし、そしてまた「しかし」、彼は繰り返される自分の揺れの中にいる。
 中西が部屋に入ると、軽くエアコンが入っている。ダイニングの灯りも点いていて、テーブルの料理には、布巾がかぶされている。
 妻はそこにはいない。子供部屋のベッドで8歳の娘に添い寝をしている。
 ネクタイを緩めながら中西が静かにその部屋のドアを閉めたとき、妻はやっと彼の帰宅に気付いたようで、目を擦りながらその部屋から出てきた。ダイニングの照明が明る過ぎるのだろうか。
 「遅くなって、ごめん。寝ていなさい。大丈夫だから・・」
 中西は妻にそういった。彼女は1年ほど前から体調を崩していて、日によっては眠れないこともある。だから彼女が寝ているのなら、そのままでいてくれた方がいいと思っている。しかし、その気持ちとは逆に、少しの物音でも彼女は起きてくる。今日のように娘の部屋を閉めるまで気が付かないというのはまれだ。
 彼女は急須にお茶を入れて、おかずを温めに立つ。そして湯飲み茶碗をひとつだけ取り出すとお茶をゆっくり入れた。夜は咳が出やすい。そのために彼女の口数は少ない。しかし中西が遅い夕食を食べるのをテーブルに坐りながら、じっと見ている。
 「再来週の日曜日、智子の学校で父親参観日をやるそうなの・・・」
 妻は台所の方を見ながら、そこになにか書いてあるかのようにいった。
 「日曜日だったら行けるだろう」
 「そう、よかったわ・・・」
 そういって妻は初めてしっかりと中西の方を向いた。
 「・・・もう寝るわ」
 彼女は医者から薬を処方されていて、遅くても10時にはそれを飲むようにしている。たぶんそれが効いてきたのだろう。彼女は自分たちの寝室に消えた。
 中西はリビングにある小さなシステムコンポのスイッチを入れた。ケニー・ドーハムのCD。曲が流れ出す。トランペットの軽快なプレイ。それと同時に彼はボリュームを絞る。聞こえるか聞こえない程度に小さくなった彼のミュートが、中西の身体に沁みてくる。
 ふと、ケースを手に取った。ものうげなドーハムの顔がそこにある。その表情がなにやら自分に似ているような気がして、中西は少し苦笑した。2曲目が始まる。今度はバラードだ。しかし中西がいま聴きたいのはこんな曲ではなかった。
 例えばローランド・カーク。全身を武装するように、さまざまな楽器を自分の身体に括りつけて、マンゼロやステッチといった奇妙な管楽器を、一度に3本も吹きあげて、鼻でホイッスルをかき鳴らし、さらにはフルートを拭きながら歌う。カークはジャズ界の怪人。彼の激しい音楽を大音量で響かせてみたい。
 しかし彼はそうはしない。ただドーハムの次の曲を待っている。そして、妻が温めたおかずをレンジまで取りにいく。その匂いがリビングまで達していた。
 中西は質問状の文案を、重い頭の中で組み立てていく。