いつもの一言



散歩の途中で、飲む一杯のコーヒー、読む本の一ページ、ちょっと見回す風景。そんなとき、いつもと違う思いが、ふと浮かんでくるかもしれません。例えば、好きな映画や小説について、そんな浮かび上がってきた「何か」を、ここで書き留めてみたいと思います。

★そんな日々の「書き留め」はこの下から始まります。

※扉の写真は春夏バージョンで、今回は上から『停電の夜に』ジュンパ・ラヒリ、『幻影の書』ポール・オースター、『マーティン・ドレスラーの夢』スティーヴン・ミルハウザーの三冊の本を使いました。小物として手前のあるのは、複葉機の翼の上でテニスをしている光景を、3Dで見ることができる超ハイテクめがね、後にあるのは、ご存知キース・ヘリングのヨーヨーです。
※この書き込みの日付は冒頭に置くための便宜的なものです。そしてあいかわらずパソコンは調子悪いのです。

■カテゴリーの簡単な説明
それぞれ以下の内容です。日付の古いほうが書き出しとなっています。
・「映画」は、一回に10本の短評集が主ですが、一部で評判が良くありません。現在はポツリポツリ一作について書いたりしています。
・「柴又再訪」は、そこで過ごした日々の思い出を綴った自己満足的な一文です。
・「ご近所の歴史」は、軍都であった板橋区や北区を辿った見学記です。
・「住宅」は、今の住まいに落ち着くまでを綴りました。
・「お話、お話・・」はこのブログ唯一のフィクションです。とあるヘッポコ労働組合が、突然逆境に陥り、それでもガンバと立ち向かっていく日々を描いています。これからしばらくは続きます。(現在中断中)


■あんまりつぶやかないツイッターも稼働中。

★当然ご存知だとは思いますが、以下の広告に関して、当ブログの管理人は何らの関与もしておりません。

復活、できるかなぁ。

 気が付けばというか、わかっていたことだけど、ほぼ放置していたこちらのブログ、昨年2017年の更新はたったの三回だった。
 ネット空間にもはやりすたりがあるようで、今はツイッター全盛の時代か、いやすでにインスタグラムに移行したのか、なんていうことはまあどーでもいい、というか私はすでに存在として蚊帳の外にいる。
 そんな私なのだが、最近縷々、ツイッターの文字数制限では何もかけないなぁ、ともおもうのである。そんな時に便利なのはこのブログなのだが、こっちは逆に文字数制限がないので、ほっておくとどんどん文章量が多くなり、かつまた方向性を失って明後日に飛んでいってしまうこと多々なのである。
 と書いてきたのは実はブログ復活のテスト版となる。どうもいろいろと試しているのだが、こう書いてきてもなぜか反映しないのだ、というわけでこれがどうなるのかは、自分でも今はわからない。
 さて、保存のボタンを押してみようかな。

「荒木町ラプソディー」に降る雨

 書くのが少し遅くなってしまったが、8月10日に、構成・演出 高橋征男の舞台「荒木町ラプソディー」を観てきた。原作は佐々木譲の警察小説『地層捜査』である。
 主人公は一人だけの部署特命課に異動してきた水戸部刑事。彼は相談役の元刑事、加納ともに、地区の名士の悪い噂を払拭するために、バブル時代に起きた殺人事件の再捜査を始める。最初二人はこの事件が土地取引がらみだと思っていたが、やがてその発端が数十年前に起こった出来事だったことが明らかになっていく。
 舞台は五年ほど前のほぼ現在と、殺人事件が起きたバブル末期、さらに数十年前へと展開している。しかしそれは大掛かりな装置の転換ではなく、例えば役者が上着を一枚羽織ることで時代がスルリと変わっていく。ただ現代にだけ雨が降り続いている。その場で黒子の役となっているのが男女のダンサーたちである。彼らが着ているベージュの衣装は、時の経過を示す地層のようで、踊りは地層に埋もれた情念に見える。事実、水戸部は彼らに抱えられて登場する。
 彼は懲罰的な人事のストレスを抱え、身重の妻も心理的に不安定だった。そのさまは水戸部の携帯電話での彼の声だけで表され、それがさらに切羽詰まった雰囲気を醸し出している。また現代がとてつもない速さで過去になっていることが、彼の使うガラケーで表されている。
 水戸部夫婦と対となるのが、割烹の若主人と妻のである。この妻もまた妊娠中である。やがて物語が進み、彼の父親の世代に秘された事件が、バブル期の殺人の要因となったことがわかる。その事実に水戸部たちは躊躇する。
 数十年前の一組の男女の悲惨な出来事が物語の起点となるのだが、彼らの若かった頃の姿は息子である割烹の若主人と妻が演じる。このようなキャスティングは一般的なのかもしれないが、私はタルコフスキーの自伝的な作品『鏡』を連想してしまった。この映画では監督自身の反映である「作者」の前妻と彼の母親を同じ女優が、そして彼の少年の頃と息子が同じ子役が演じているのだ。しかし年代の説明がないので、初見の観客は画面の女優や子役がいったい誰を演じているのかわからなくなる。この揺らぎこそ監督の意図の一つなのだろう。
 「荒木町ラプソディー」の物語の起点となる若い二人は、最後にいわば幻影として登場する。何も台詞がない彼らだが、おそらくこの舞台のすべてを表現し、そして雄弁であるのはこの二人だろう。ただ彼らの立ち姿に観客は一瞬だけ戸惑う。しかしすぐにその意味を理解する。事実が明かされた時、人々の中で、少なくとも水戸部と加納の中で彼らの「お披露目」は果たされたのである。
 しかし荒木町の雨はいつ止むのだろうか。

『騎士団長殺し』についての些細な疑問。

 先日、村上春樹さんの『騎士団長殺し』を読み終えた。その中のちょっと気になる点については、すでにツイッターに載せたけど、ここではその些末的なことをさらにくわしく書いてみたい。
 さて、この小説には何台かのクルマが登場している。主人公の傷心旅行で活躍するプジョー、彼が買い替えるカローラ・ワゴン、謎の人物メンシキの駆るジャガー、そのメンシキの娘かもしれない少女の叔母が乗るプリウス、友人の古いボルボ、そして今回少し考えてみたいのが、主人公が東北の旅の途中に目撃するフォレスターである。
 主人公はファミレスの席から外の駐車場に停まっているクルマを眺めた。本文を引用すると、

「駐車場には白いSUVが新たに加わっていた。ずんぐりとした背の高い車だ。頑丈そうなタイヤがついている。さっき入ってきた男が運転してきた車らしかった。頭から前向きに駐車している。荷室ドアにつけられた予備のタイヤ・ケースには『SUBARU FORESTER』というロゴが入っていた。」とある。
 自明のことだが、「予備のタイヤケース」とはタイヤケースの予備ではなく、予備のタイヤ、つまりスペイタイヤのケースが荷室ドアに装着されていた、ということだが、少しでも車に関心のある人ならふと疑問に思うはずである。はたしてリアドアにスペアタイヤを付けたフォレスターは存在するのだろうか、と。
 もちろん愛車にさまざまなものを装着する人は多い。特にRV車と呼ばれる車種には、ルーフにキャリヤーを載せたり、リアドアにラダーを付けたり、サイドにタープをくっつけて楽しんでいた。そんな流れでリアドアにスペアタイヤを装着するのが流行っていた時代もあって、そんな車を見掛ける機会も多かったのは確かである。ほとんど街乗りの車、例えばトヨタ・RAV4に外付けスペアタイヤが付く、なんてこともあった。リアドアのタイヤがRV的かっこよさのアイコンとして機能したのである。
 しかしこのスペアタイヤの存在は日常的にはウザったい。当然リアドアは重くなり、それを開けるのが面倒なのである。そういった認識がユーザーに一巡して、新しいRVのモデルからは、ヘビーな車種を除いてスペアタイヤを背負う車種が消えていくことになる。
 先ほどのRAV4しかり、ホンダのCR−Vやスズキのエスクードもその類だった。時代考証をしていないが、フォレスターもそのような時代以降に登場したモデルだったはずである。
 この小説の舞台は東日本大震災の数年前なので、登場するフォレスターは、第一、もしくは第二世代ということになる。しかしそれ以降のモデルも含めて、フォレスターのリアドアにはタイヤを背負うスペースがあるようには見えない。またすべてが上下に開くタイプのドアなので、万一タイヤを装着すると、そのヒンジに掛かる負荷はかなりのものになる。
 もちろん車検に通らないような車を見掛けることもあるのだから、リアドアにスペアタイヤを装着したフォレスターなどないと断言することはできない。だけど、こうはいえるだろう。こういった設定には無理がある、と。
 そしてさらに不思議なのは、どうして小説のキーになる車にフォレスターを選んだか、である。リアにタイヤカバーが付く車は他にもたくさんあるのだ。主人公が車種を認識するために、大きめのロゴが必要だったのかもしれないが、プジョーに乗っている彼は、車にそれなりに関心を持っているとも考えられるので、ノーマルのフォレスターでも、その車種を断定しても不自然さはないのである。
 また彼がもう一度それを見ることも、印象深いステッカーの存在で「個体認識」は可能だっただろう。しかし優秀な新潮社の校閲部がそんなミステイクをするはずがないのだ。
 以上のことから考えると、ほぼあり得ないフォレスターをあえて登場させるなんらかの必要性があったのかもしれない。当然続くだろう第三部では、この不思議なフォレスターの存在可能性自体が、なんらかのキーになっていくことを、今は期待したいのである。

「新宿のありふれた夜」の感想 SIDE:B

 前回書いた舞台「新宿のありふれた夜」について、音楽を中心に。
 この舞台では、ピーター・ポール・アンド・マリー(以下PPM)の曲が三曲使われている。
 まずは「風に吹かれて」。今年のノーベル賞受賞者であるボブ・ディランの代表曲だが、PPMのヒットによって、世界的に有名になったはず。PPMの三枚目のアルバム「IN THE WIND」の最後に収録されているが、あまりに知名度が高いので、ここで書くことはないだろう。
 「レモン・トゥリー」も同様にある年齢の世代であれば、ほぼ知っている曲である。グループ名を冠した彼らの最初のアルバムに入っている。これら二曲はPPMのベスト盤があれば、間違いなくチョイスされるが、この舞台にはもう一曲PPMの楽曲が使われている。それが「IN THE WIND」の1面最後の「ポリー・ヴォン」だ(と思われる。他の曲だったらごめんなさい)。
 この曲、先ほどの伝でいうと、ベスト盤にはまず入らない地味な曲、どうして使われたのだろうかと歌詞の翻訳を読むと、それはとある猟師の物語で狩りに出掛けた彼が、白いエプロン姿の恋人を白鳥と間違えて撃ってしまう、という物語なのだ。舞台の副題である「我に撃つ用意あり」とはかなり意味合いを異にするけれど、主人公のリンが着ていた大きめの白いシャツ、そして袖口の血や腕の傷に符合しているように思うのは、深読み過ぎるだろうか。
 さらにキングクリムゾンの「ムーン・チャイルド」が流れている。劇中劇で不在の主人公である克彦が少年として現れるパートである。ここが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を擬しているならば、その夜ジョバンニが友人のカンパネルラを失ったように、克彦もかつての夜に友人を亡くしているとも考えられる。かつての夜とはもちろん「ある日の夜」である(まわりくどくてすみません)。
 この「ムーン・チャイルド」を歌っているのは、先日亡くなったグレック・レイクである。あの透明感のある声に私たちは魅了された。奇しくもこの一幕は彼に捧げられることになる。
 そして流麗なPPMとは違って、粗削りな本家ボブ・ディランの「風に吹かれて」が掛かる。「吹く風の中にある」答えとはいったい何なのか。それは具体的な答えというよりも、探し出そうとすること、その行為の中にあるのかもしれない。
 さて、今回、主人公克彦の出ない舞台を堪能した。いま私は60年代末期の意識とまったく別の「新宿のありふれた夜」を夢想する。しかしやはりそこにはリン的存在はいてほしいと思う。

「新宿のありふれた夜」の感想 SIDE:A

 21日に新宿のスペース雑遊で、舞台『新宿のありふれた夜』を観る。これは佐々木譲さんの同名小説の四度目の舞台化で、副題は、若松孝二監督が映画化したタイトル「我に撃つ用意あり」。
 観客席は100ほどか。空間の六割が舞台で隙間はほとんどなく、観客の目前で芝居が展開することになる。
 原作は1983年の新宿のひと夜の出来事を描く。ベトナム難民の少女リンは、暴行しようとした暴力団の組長を殺して、偶然歌舞伎町のバー・カシュカシュに身を隠す。主人公である店長の郷田克彦や常連客は、60年代末の政治的状況を担ったかつての若者たちだった。その意志がリンを前に問われることとなる。
 いっぽう組長を殺された組員たちはリンを血眼になって探す。組長殺害を暴力団の抗争と考えたた警察も容疑者の捜索に乗り出す。その二つの輪がじりじりとリンに迫ってくる。原作は暴力団と警察の包囲網を俯瞰的に捉え、かつ主人公たちの拠点、いわば砦となったカシュカシュの群像を描いている。

 しかし驚いたことに今回の舞台に、主人公の克彦は登場しないのだ。私はこの舞台が『新宿のありふれた夜』を原作としているのさえ疑うことになるが、やがてリンはカシュカシュの常連客たちが匿い、郷田は店の外で彼女が海外に逃げ出すための方策に奔走しているという設定であることがわかる。
 ただし郷田は劇中劇に少年の姿として現れる。一瞬ジョバンニと呼ばれる彼は、すぐに克彦となる。「ありふれた夜」に「銀河鉄道の夜」が組み込まれたわけである。
 舞台に主人公が登場しないことで、逆に常連客の属性が浮き上がってくる。それぞれの胸の内に残る残り火に温まるように、彼らはテーブルを囲んで、ワルシャワ労働歌を口ずさむ。「砦の上に我らが世界」と。しかしリンを逃す方法を考え出したのは、元ヤンキーの氷屋の青年だった。その顛末はここでは書かないことにする。
 そして不在だった克彦はリンとともに消えて、カシュカシュはほんとうに不在の空間となる。カシュカシュとはかくれんぼの意味を持つ。キャストと観客は克彦が意味したことの不在を知る。

 『新宿のありふれた夜』の四回目の舞台化だそうだ。たぶん一回目の公演を私は観ていて、そこでは原作通り克彦が主人公だった。台本を書いた高橋征男さんは、なぜ克彦の姿を消し去ったのだろうか。帰りがけ、いっしょに観劇した連れあいに私が「ゴドーを待ちながら」かな、と話すと、彼女はすかさず「霧島、部活やめるってよ」みたいね、といった。これは彼女の方が正解なのかもしれない。前に書いたように、克彦の不在は他のキャストを浮かび上がらせる。スポットライトはその隅に100名余の観客たちをも照らしているはずである。

 12月27日まで、スペース雑遊にて上演中。