2009-01-01から1年間の記事一覧

2009年へのご挨拶

気持ちの数だけの花を 2009年にも今日でお別れです。 別れはいつもツライものですが、 特に今年はいろいろとありましたから、 このお別れは感慨もひとしおです。 しかしそんな気持ちも来年になれば、たぶん忘却の彼方、 向こうで大きく手を振っていても、気…

区民講座初体験10最終回

歴史の小窓 そして見学会の一行は図書館前で説明員の話を聞いたあと、図書館の会議室に案内されました。中はどこも空間が広く取ってあって、なかなか居心地がよさそうです。ここで2時間ほどの徒歩ツアーが終了となりました。 最後に一言付けたしですが、と…

区民講座初体験09

歴史を積んだレンガの壁 その白い塗装の下に、語りつくせない歴史を刻んだ中央公園センターを後にして、見学会の一行は最後の目的地、北区中央図書館を目指して公園の中を進みます。このあたりは王子野戦病院だった当時、ベトナムから傷病兵を移送してきたヘ…

区民講座初体験08

戦傷者と声とピアノの音 昨日の陸軍用地標石ですが、考えてみれば戦後占領軍に土地が接収されたときに、無くなるはずですよね。それが残っているのは、やはり小さ過ぎたからなのかな。そもそも戦後は戦闘機も戦艦もみんなスクラップや標的にされて、平和憲法…

区民講座初体験07

小さな石の大きな権力 これまでは、何度か触れているように火薬製造所のちに第二陸軍造兵廠を、現在の野口研究所に残されている火薬研究所の遺構を中心に見てきました。と、かなり回りくどい書き方ですが、しょうがありませんね。軍事施設はそのときどきで名…

区民講座初体験06

軍都の小さな動脈 加賀公園の築山を下りて、一行は金沢橋を通って石神井川を渡る。この辺全体が加賀藩下屋敷だったから、金沢橋というネーミングなのですね。そのまんまですが。そして細い坂をぐいぐいと登る。いやはや皆さん健脚であられる。愛誠病院近くの…

区民講座初体験05

残された頭脳の断片 建物と建物の間に、弾道管や防爆壁がひっそりと残されている場所を後にして、見学会の一行は敷地の裏手へと歩き出しました。ここにはまだ当時の建物が改修もされずにそのまま残っています。手前の一棟は内部が三分割されているのですが、…

区民講座初体験04

施設を残した偶然性 そして一行は現在の野口研究所、戦時中の火薬研究所(二造板橋工場23号屋など)の中を並木に沿って進みます。そしていくつかの建物を過ぎてからその隙間に入ると、脇にやや小振りな土管のようなものが横たわっていました。これが弾道管と…

区民講座初体験03

開陽丸の荷物(?)とご対面 加賀西公園を出発した史跡探訪の一行は、まずは圧磨機圧輪記念碑の前に佇みます。説明によると澤太郎左衛門の欧州留学の際に輸入した部品で作られたとのこと。というと開陽丸で運ばれたのか、それとも後日別による便なのか。そこで…

区民講座初体験02

そしてそれは標的となった。 講座二回目の13日は、「板場区域における旧軍施設と工場の展開」でした。参加者は初日と同じ50人ほどで、ほとんど誰もサボらないっていうのもすごい。 まずは板橋火薬製造所の建設から口火が切られる(引火に注意)。明治4年9…

区民講座初体験01

セミナー初体験 板橋区主催の文化財講座『板橋区域の近代化と軍都の形成』に行ってきました。こういった公的機関が開催する行事に参加するのは、たぶん初めての体験です。 日程は12月12日、13日の土日は座学でしっかりと勉強、そして翌週の20日の日曜日に参…

柴又、記憶のうちに23

おばさんへのお礼の言葉 柴又駅を出て駅前広場を過ぎ、左にある踏み切りを渡るとすぐに蕎麦屋がある。ここには一度だけ入ったことがある。柴又で暮らした4年間、外食はほとんどしたことがない。せいぜい夏にカキ氷を食べるぐらいで、だいぶ前にもんじゃ焼き…

柴又、記憶のうちに22

文鳥と古本 たぶん古本屋に入るのは初めてだっただろう。父と二人でその店に入り、父がたまたま見つけてくれたのが『文鳥の飼い方』という本だった。当時、私は手乗りの白文鳥を飼い始めたばかり。50円という価格にびっくりしたが、今も古本屋の均一台にはそ…

柴又、記憶のうちに21

アオスジアゲハと自転車 そのみんなにはあまり知られていなかった公園を、私はたまたま神社の森にセミ取りに行って、見つけた。そこは柴又駅の近くで、表通りからは見えにくい位置にあった。当時は神社と公園を隔てるフェンスは無かったと思う。 まだ買って…

柴又、記憶のうちに20

読んでは描いてのマンガの日々 柴又で暮らしていた頃、小学生の関心事の中心のひとつが漫画雑誌だった。しかし数多くの月刊誌、週刊誌の中で、フォローできたのは少年サンデーとマガジンのみ。この2誌は友達と交換して読んでいたのだ、担当したのはサンデー…

柴又、記憶のうちに19

おじさんの技量 柴又に引っ越してきた日、一家は一台のトラックに乗ってやってきた。運転席の後ろに仮眠の空間があったのでそこに母親と妹、そしてシートにはドライバーと助手、そして父親と私が座った。ドライバーは時たま私に首を引っ込めるようにいう。警…

柴又、記憶のうちに18

公園とおたまじゃくし 小学生の放課後の行動範囲の北限はせいぜい金町公園までだった。何らかの用事で水元公園や金町駅まで行くことはあっても、それは休日に限られている。南の行動範囲なら鎌倉公園ということになる。ここには面白い遊具があったが、なにせ…

柴又、記憶のうちに17

缶蹴りと銀玉鉄砲と校舎の模型 当時の小学校校舎は木造の2階建てだった。ややいびつなL字型で、角の部分は離れている。L字の底の先にはちょっと離れて音楽教室があり、よく児童にいじめられていた先生がそこでオルガンを弾いていた。そこは缶蹴りの集合場…

柴又、記憶のうちに16

サンダ対ガイラと酒井和歌子 アパートに風呂がなかったので、小学2年の最後から6年の秋までは銭湯に通った。一番近い場所にあった北野湯は、アパートから歩いて3分ほどだった。だから寒い冬でも湯冷めはしない。洗面器に手拭いと石鹸、シャンプーを入れて…

柴又、記憶のうちに15

記憶のいづみとしての駄菓子屋さん その「いづみ」という駄菓子屋で買い物をするとき、10円の品物は最初から眼中にはなかった。お目当ては5円で買えるもの。その日のその一点を探すために、ガラス蓋の下に並んだ商品群をゆっくりと眺める。やがて候補が決ま…

柴又、記憶のうちに14

文房具店で学んだこと この店はお菓子と雑誌、そして文具を売っていた。しかしいつもそのコーナーを回遊するように品定めしたのは意外UBSI文具売り場だった。面積にすれば、たぶん20平米にも満たない非常に狭い場所だったが、それでも子どもには細々とし…

柴又、記憶のうちに13

病院の明かりが灯るとき そろそろ子どもの寝る時刻、ということは夜の9時頃のことだろう。 親と何らかの言い争いをして、いやいやながら牛乳瓶を2本、アパートの階段下に降ろしにいった。ちなみにその頃の我が家族は、柴又三丁目のアパートの二階に住んで…

柴又、記憶のうちに12

鉄塔の光と影 この鉄塔は柴又で目にする最大の構築物だった。 アパートからおよそ100メートルの距離。どうして電線の下には家が建っていないのだろう、とその頃は不思議に思っていた。ある日、その意味を知らされて納得したが、それまでは何もない土地が…

柴又、記憶のうちに11

原初的なカスタムカー 柴又の小さな商店街には、ラーメン屋と模型店が並んでいた。 今では素のラーメンを注文する人は少ないかしれないが、当時はこれこそが本道で、その内容も今より充実していたように思う。ただしもっぱら出前だけで、店内で食べたことは…

柴又、記憶のうちに10

カラーテレビの誘惑 カラーテレビを初めて見たのは、柴又の小さな商店街の電気屋だった。 ショーウインドウの真ん中に、レコードプレイヤーやトランジスタラジオを家来のようにしてそのカラーテレビは鎮座していた。そのテレビが映るのは夕方の人通りの多い…

柴又、記憶のうちに 9

空き地と50円玉 赤土と呼ばれた空き地があった。囲いはなく、何かが置いているわけでもない、それはまさに空き地だった。子どもたちの間で書き文字になったことはないので「あかつち」か「アカツチ」だったのかもしれない。そこには何にもないので何にでもな…

柴又、記憶のうちに 8

3つの塾通い 柴又では短期間ながら書道教室とそろばん塾、そして小さな学習塾に通った。しかし字がうまくなったり、計算が速くなったり、頭が良くなったりすることはなかった。 ひとつぐらいどこかに通うというのが、当時の塾通いの定番だったのかもしれな…

月のいろいろ

今日もまた月の話の続き。 昨日、コメントで『ムーン・パレス』を紹介したけれど、ほかにもいろいろと我が人生を彩った「月関連グッズ」が、空ではなくて私の頭に浮かんでくる。で、ちょっとそれを眺めてみることにしよう。 昔よく聞いたLPに、日本では『…

月に鴨

昨夜、公園を散歩する。 前日の月がすこしだけお出ましを遅らせて、木々の上にかかっていた。 月に向かえば、右後方には木星が光る。 金星に明るさで劣るが、滞在時間が長いので、無精者には愛想のいい星だ。 月はビルの谷間もいいが、やはり水辺や樹木が似…

月は笑っていただろうか。

池袋で用事を済ませての帰り。 ふらりと倉庫のような古本屋に寄る。 すると何冊か並んでいる安部公房の『笑う月』。 一冊、帯のないものを取ると680円。 帯付きはその倍だった。 本はビニールに包まれている。 版型は大きく、グラムあたりの値段は安い。 …