『第2会議室にて』09

oshikun2010-04-03

 2008年7月10日⑤
 質問状の中身は、委員長の中西信也が二、三日中に考えてくることになった。そこでまた執行部会を開いて、正式な書面にする。それを確認して各々は第2会議室を出た。
 組合執行部のみんなと別れて、福田は自分の席に戻る。しかし仕事を続ける気にはならなかった。校了までには時間がある。編集部の人数も半分程度に減っていた。
 「今日のところは帰ろう」
 鞄を持って会社を出る。益々この会社が難解な存在になってきた。福田は振り返らずに道を急いだ。そして急ぎながらこれまでの会社の変遷を思い出していた。少し小走りになったので途端に汗が噴き出す。駅まではずっと上り坂だ。
 モータータイムズ社は起業が終戦直後という出版社の中でもかなりの老舗だった。ただ自動車技術に特化した雑誌だけを発行していたので、知名度はあまりなかった。合併を機に引退した田中眞人社長はその2代目で、急死した創業社長のあとを、学生の身分で継いだ。それももう40年ほど前のことだ。
 彼が社長に就任した頃から会社はモータリゼンションの波に乗り、技術者向けの小部数の雑誌から、一般のユーザー向けの雑誌へと方向転換を図った。またイベントの開催にも積極的で、暴走族の集会といわれたアフターパーツのイベントのモータープラザも、開催後10年で市民権を得て、15年目あたりからは自動車メーカーも積極的に参加するようになっていった。
 福田はあと少しで駅に着く。夏だというのに、駅前にはラーメンの屋台が出ている。赤ら顔のサラリーマンが麺を啜り、ビールを飲んでいる。みんな楽しそうだ。福田は自分も腹が減っていることに気づく。しかし、急ごう、もう9時を過ぎている。自分にも待っている人はいるのだ。
 田中社長は取締役として、いちおう編集担当と事務担当をひとりずつ置いたが、すべての決済は自分で行なった。公害問題やマスキー法の時代に少し会社の経営が危うくなったことがあり、その危うさを社長が明らかにしたことから、モータータイムズ労働組合が結成された。基本は給料の問題だった。社長は当初組合の存在そのものにかなり抵抗したという。しかし話し合いが繰り返され、賃金の面に於いては、出せるものはすべて出すという方針に彼自身が変わっていった。
 その頃、存命だった彼の母親が、人材こそが会社の財産であるという意味のことを伝えたともいわれている。さらに彼は二枚舌で組合に対するのが苦手だったのだろう。腹の中にほんとうの気持ちを残しておくことができない性質なのだ。
 福田が就職してからも組合のボーナス4.75ヶ月の要求に、計算が面倒なので、5ヵ月にしろと、逆提案することさえあったのだ。
 「いい時代だったな」
 そう福田は新宿駅に滑り込む電車の中で思った。その場面を鮮明に憶えていた。その頃の組合委員長がおずおずと要求月額を提示すると、田中社長は笑った。
 「ずいぶんと半端な数字だなぁ。いったい誰が考えたんだ。たいしたヤツじゃないぞ、そのことだけはオレが保障する」
 彼はそういって、ぽんと5ヶ月分の返答をした。それはまさに「くれた」という感覚だった。
 そんな彼に次に変わったのが2004年だった。前年、編集担当の取締役が病気で亡くなり、もうひとりの事務担当の取締役も70歳で辞任した。これを機会として、彼は取締役の若返りを図かることにしたのだろう。
 2004年の初め、編集部門の取締役に、当時30歳代半ばのモータースポーツ雑誌の編集長だった松本が抜擢された。突拍子もない企画を実現可能であると提案することが多かった彼は、その具現化よりも弁の巧みさを買われたようだ。また広告部門の取締役になったのは、広告部の課長だった近藤だ。彼は会社にいることがほとんどないが、一度ゴルフに出かけると何本かの広告を取ってくるという伝説だけが一人歩きしていた。
 事務担当の取締役となったのは銀行からやってきた元支店長の村田だった。バブル崩壊後、銀行は自身のスリム化のために取引先に人材を供給していた。実際のリストラなのだが、モータータイムズ社は彼を格段の待遇で迎え入れた。
 「変な時代だった」
 山手線の中で福田は思った。
 「社長は次の担い手を探していたんだろうな」
 しかしそれを見極める才覚は彼にはなかったようだ。
 実際、モータータイムズ社は以前経理担当者の不手際で、経営危機に陥ったことがあったので、田中社長は銀行出身の村田に経理の腕を期待したのだが、その面の才覚はまったくなく、村上は実務を担う人材をひとり、出身銀行から引き抜くことになった。
 山手線の電車は池袋に入った。ここから西武池袋線の改札まではかなり歩く。しかし長くはない。今日は考えることがたくさんあったのだ。