『第2会議室にて』11

oshikun2010-04-09

 2008年7月10日⑦
 福田和彦がダイニングに通じる扉を開けると、ちょうど妙子がテーブルに料理を運んでいるところだった。
 「あら、今日は電話がなかったわね」
 そのとき初めて福田は気づいた。彼はいつも会社の帰りに、何時ごろ家に着くか連絡を入れていたのだ。駅まで同僚と帰るときは恥ずかしくて入れないこともあるが、そうでなければかなり高い頻度で彼は連絡していた。
 「あっ、そうか、悪かったね」
 「ううん、ぜんぜん、それにギリギリまだ9時前だから、とりあえず問題なし」
 テレビではNHKの首都圏ニュースが天気予報を伝えている。
 思えば、今日の帰りの風景を彼はほとんど覚えてはいない。そう、西武池袋線で前に若い女性が座ったことぐらいだろうか。それほどまでに自分が会社のことを考えていたかと思うと、ちょっと嫌な気持ちになった。なにか自分のまわりの空気が、汚れてしまうようなそんな気分だ。
 「今日、オレ、副委員長になっちゃったよ」
 「えっ、なにそれ、何の副委員長なの」
 「労働組合、モータータイムズ社労働組合の副委員長だよ」
 「へぇー、そうなんだ。アナタの会社に組合なんてあったのね」
 「そう、ずーっと昔からね。・・・で、ビール・・じゃなくて、発泡酒・・」
 「その前に手を洗って、うがいをしてね」
 福田はそれに素直に従って洗面台に向かった。
 「前にウチの会社が合併するって話、しただろ」
 「ええっ、聞いたわ」
 「それに関連してたいへんなことになりそうなんだ」
 「合併って普通、たいへんなことにはならないはずだけど・・。どんなことがたいへんなの」
 福田の背中で妙子がそういった。彼女は証券会社に勤めている。経済や企業については福田よりずっとくわしいはずだ。
 「例えば、給料が減る。仕事がきつくなる」
 「2、3年前に年俸制になったとき、かなりダウンしたはずだったわよね。それがまた下がるの? それってありえないんじゃないの」
 「オレもそう思いたい」
 福田の給料は年俸制に移行する前、つまりまだボーナスがあった時期は、ほぼ1000万を超えていた。年々ボーナスは少なくなっていったが、月給が上昇したおかげで年収が大きく減ることはなかった。それが新社長のもとで年俸制が導入された瞬間に、いともたやすく300万円近くもダウンした。
 これは福田だけのことではなかった。彼自身は子どもがいないし、幸い安い賃貸マンションも確保していたし、それに妙子も働いていたから、生活がダメージを食らうことはなかった。これが世間相場かな、といった思いもあった。当時の出版不況という理由付けも理解できないことではない。ただし扶養家族を抱えている社員はたいへんだっただろう。
 どうしてそのとき組合活動が無かったのか、いやあることにはあったのだろう。ただそれを福田が無視しただけだ。それを他人ごとでもあるかのように、彼は見て見ぬふりをした。そのときの委員長が何かをする、それでダメならそれでもいい。若い連中との意見の相違からも組合活動には嫌気がさしていて、まさに参加しないことに積極的になっていた頃のことだ。しかし今度は、そのときの比ではないらしい。
 「でもね。合併っていったって、普通は前の会社のルールが踏襲されるはずなのよ」
 妙子はもうテーブルについている。
 「それが普通の合併じゃないらしいんだ・・・いろいろと変な噂がある」
 9時のニュースが流れている。金融商品販売による詐欺事件が取り上げられている。
 「普通の合併じゃなくて、変な噂とくれば、つまり乗っ取りってことかな・・」
 洗面所でうがいをしようとしていた福田にその言葉が刺さった。背中に冷たいモノが触れたようだ。今までいろいろな思いを巡らしてきたが、その言葉が浮かんで来たことはなかった。わざとその言葉の横をすり抜けてきたのかもしれない。
 「乗っ取りか・・・」
 それがいちばん判りやすい解釈だ。その言葉を自分から剥ぎ取るように彼は水を吐き出した。