『第2会議室にて』11
2008年7月10日⑦
福田和彦がダイニングに通じる扉を開けると、ちょうど妙子がテーブルに料理を運んでいるところだった。
「あら、今日は電話がなかったわね」
そのとき初めて福田は気づいた。彼はいつも会社の帰りに、何時ごろ家に着くか連絡を入れていたのだ。駅まで同僚と帰るときは恥ずかしくて入れないこともあるが、そうでなければかなり高い頻度で彼は連絡していた。
「あっ、そうか、悪かったね」
「ううん、ぜんぜん、それにギリギリまだ9時前だから、とりあえず問題なし」
テレビではNHKの首都圏ニュースが天気予報を伝えている。
思えば、今日の帰りの風景を彼はほとんど覚えてはいない。そう、西武池袋線で前に若い女性が座ったことぐらいだろうか。それほどまでに自分が会社のことを考えていたかと思うと、ちょっと嫌な気持ちになった。なにか自分のまわりの空気が、汚れてしまうようなそんな気分だ。
「今日、オレ、副委員長になっちゃったよ」
「えっ、なにそれ、何の副委員長なの」
「労働組合、モータータイムズ社労働組合の副委員長だよ」
「へぇー、そうなんだ。アナタの会社に組合なんてあったのね」
「そう、ずーっと昔からね。・・・で、ビール・・じゃなくて、発泡酒・・」
「その前に手を洗って、うがいをしてね」
福田はそれに素直に従って洗面台に向かった。
「前にウチの会社が合併するって話、しただろ」
「ええっ、聞いたわ」
「それに関連してたいへんなことになりそうなんだ」
「合併って普通、たいへんなことにはならないはずだけど・・。どんなことがたいへんなの」
福田の背中で妙子がそういった。彼女は証券会社に勤めている。経済や企業については福田よりずっとくわしいはずだ。
「例えば、給料が減る。仕事がきつくなる」
「2、3年前に年俸制になったとき、かなりダウンしたはずだったわよね。それがまた下がるの? それってありえないんじゃないの」
「オレもそう思いたい」
福田の給料は年俸制に移行する前、つまりまだボーナスがあった時期は、ほぼ1000万を超えていた。年々ボーナスは少なくなっていったが、月給が上昇したおかげで年収が大きく減ることはなかった。それが新社長のもとで年俸制が導入された瞬間に、いともたやすく300万円近くもダウンした。
これは福田だけのことではなかった。彼自身は子どもがいないし、幸い安い賃貸マンションも確保していたし、それに妙子も働いていたから、生活がダメージを食らうことはなかった。これが世間相場かな、といった思いもあった。当時の出版不況という理由付けも理解できないことではない。ただし扶養家族を抱えている社員はたいへんだっただろう。
どうしてそのとき組合活動が無かったのか、いやあることにはあったのだろう。ただそれを福田が無視しただけだ。それを他人ごとでもあるかのように、彼は見て見ぬふりをした。そのときの委員長が何かをする、それでダメならそれでもいい。若い連中との意見の相違からも組合活動には嫌気がさしていて、まさに参加しないことに積極的になっていた頃のことだ。しかし今度は、そのときの比ではないらしい。
「でもね。合併っていったって、普通は前の会社のルールが踏襲されるはずなのよ」
妙子はもうテーブルについている。
「それが普通の合併じゃないらしいんだ・・・いろいろと変な噂がある」
9時のニュースが流れている。金融商品販売による詐欺事件が取り上げられている。
「普通の合併じゃなくて、変な噂とくれば、つまり乗っ取りってことかな・・」
洗面所でうがいをしようとしていた福田にその言葉が刺さった。背中に冷たいモノが触れたようだ。今までいろいろな思いを巡らしてきたが、その言葉が浮かんで来たことはなかった。わざとその言葉の横をすり抜けてきたのかもしれない。
「乗っ取りか・・・」
それがいちばん判りやすい解釈だ。その言葉を自分から剥ぎ取るように彼は水を吐き出した。