『第2会議室にて』13

oshikun2010-04-16

 2008年7月10日⑨
 執行部会から戻ると太田章の机の上には、半透明のファイルからこぼれそうなほどの枚数の現金請求伝票が載せられていた。もう誰も経理部の社員は残っていなかった。これは明日の仕事だ。それでなくてもいつもより2時間も遅い。そしていつものように二人の子どもの顔を思い浮かべた。
 「今日はアイツらと遊べる時間があまりないな」
 彼はそう思って、そのファイルを机の一番下の引き出しに放り込み、鞄を肩に下げた。二人の子ども、4歳と2歳の男の子、彼らのことがいまの彼にとっての最大の関心事だ。エトランスに向かう彼の歩みが、いつもよりも少し速い。
 「じゃ、お先に」
 まだ残っていた若い広告部員に、ちょっと敬礼でもするように右手を挙げて村上悟は立ち上がった。広告部は基本給に営業成績の歩合が加算される給料体系だ。しかし村上の広告制作部、つまり実際に代理店や得意先と広告そのものをやり取りして、それを媒体に供給している部署に歩合給fない。その代わりに時間外手当が付いている。突然クライアントが広告を変更したり、版型が間違っていたり、予定していた広告が間に合わないことが日常的にある。すると残業をしなくてはならない。村上たちは自分とは別の場所で発生する原因で会社に残る、それは当然ストレスになる。
 広告部員は広告を取ってくれば、その仕事は終わる。その入稿予定日と該当する媒体を村上たちに伝えた後は、ほとんどフォローをしない。何か問題が発生すれば、村上たちの仕事となる。彼の机は広告部のすぐ隣だが、気持ちの上では遥か遠く。きっと理解し合えることはないだろう。それでも自分は黙々と仕事をし続ける。幸いなことに、今日はトラブルの報告は入っていない。入稿すべき広告原稿は、印刷会社便のBOXに入れてある。もう取りに来ているはすだ。一つだけ村上は溜息をついた。タバコを吸いたい気分だ。
 彼は鞄と机の上のタバコを手にして、階段を降りていった。するとちょうど太田がエントランスを出るところだった。
 「太田ちゃん!」
 村上が太田の背中に声を掛ける。
 「そんなに大きな声を出さないでくださいよ。逃げませんから。それでなくてもここは声が反響するんですから」
 確かにこのエントランスだけは空間が大きく取ってある。きっと構造上そうせざるをえなかったのだろう。しかし太田はいつも一言多い。
 「帰りかい」
 村上の口数はかなり少ない。
 「これが帰り以外の何に見えますか」
 太田は両腕を広げてみせた。
 「いっしょに帰ろうか」
 村上は彼の質問には答えない。
 「村上さんはどこに住んでいるんでしたっけ、っていうか、どの駅を使っているんですか」
 「そこを右だよ」
 そういって村上はポケットからタバコを出したが、太田が視線を送ったので、また元に戻した。
 「しかし、なんだな。たいへんだな。これから。太田ちゃん、今いくつだっけ」
 少しだけ口数が多くなった。
 「まだ、28歳ですよ。これからどうなっちゃうんでしょうかね。子どもも小さいし、カミサンは働いていないし、ローンは30年も残っているし・・・」
 太田は少し下を向いて歩く。
 「オレも、まだ54歳だし、心配だな。子どもはハタチ過ぎたけど、女房も働いているけど、オレには家賃収入があるけどな・・」
 村上はちょっと上を向いた。すると一つだけ星が見えた。そして気づいたようにライターをただカチカチといわせた。でもタバコは持ってはいない。
 「ええっ、大家さんなんですか」
 「ああ、実際には女房の実家の持ちモンで、ぶっ壊れそうなアパートだけど、もうジジババがいい歳なんで、管理してあげてるのさ」
 「へえ、いいなぁ」
 「どこがだい」
 「だって、未来があるじゃないですかぁ・・」
 「あのオンボロアパートに未来があるんだったら、若い太田ちゃんには何がある」
 彼はちょっとだけ考えているようだ。
 「・・絶望だけのような気がする・・・」
 「でも知ってるぞ・・」
 「えっ、何をですか・・?」
 「太田ちゃんが、机に子どもたちの写真を飾っているのを・・」
 「あれを見たんですか」
 「ああ、じっくりとね。本人の居ない時間に、経理の女の子といっしょに・・」
 「今日、置いたのになぁ」
 「それだよ。太田ちゃんの未来は、そこにしかないだろう」
 「カミサンってこともありますけど・・」
 靖国通りに魅力的な赤い電飾を村上が見つけた。まだ8時半にもなっていない。
 「ちょっとだけ、寄っていくか」
 村上は、右手の指を丸めて、それを少し捻った。
 「ホントにちょっとだけですよ」
 しかしそういう太田の顔が「破顔」したのを、村上は見逃さなかった。
 「おい、お前の未来に連絡しなくてもいいのか」
 「大丈夫です。僕は未来をしっかりと握っていますから、・・・たぶん」