『第2会議室にて』14
2008年7月10日⑩
太田章と村上悟は、ちょっと早足になって駅の近くのビルにある居酒屋に向かった。エレベーターで6階まで上がると、扉が開いたとたん、客たちのざわめきが彼らを迎えた。村上はこの感覚は嫌いではなかった。太田は店員に対して指を二本立てた。客が二人であることのしるしだろう。しかし彼がそれをやるとピースサインにしか見えない。
幸いなことに窓側の席が空いていた。すでにかなり酔っている客たちの間をすり抜けてそこへ歩く。見える顔はみんな幸せそうだ。窓からは外堀が見えた。駅のホームがそこに浮かんでいるかのようだ。電車がホームに入ってきた。その灯りが堀に揺れて映る。
村上は生ビールを、太田はレモンサワーを頼んだ。ツマミはこれから考えるというと、女の店員はすぐに引っ込んだ。
「キレイだな」
村上が窓の外を見ていった。
「えっ、店員がですか。僕の方からは見えなかったんですよ」
「違う。ほら、真っ黒なお堀に灯りが揺らいでいる・・」
「村上さんは詩人ですねぇ」
「まあ、これからはこんな風景も見られなくなるかもな」
「お堀が埋め立てられるんですか」
「違うよ。ここに勤めるのも、そんなに長くないかもしれない、ということだ」
またあの話が続くことになる。
「そんな状況だと思うんですか」
太田は運ばれてきたレモンサワーに口を付ける。ツマミを注文するのを忘れたが、店員は気づかないで戻ってしまった。
「いい状況でないことだけは確かだね。それが実際の状況なのか、それともわざと作られた状況なのかはわからないけれども・・」
「わざと、ってどうことですか」
「会社の幹部たちが、自分のやりたいようにやるための準備をしているってことさ」
太田は村上の言葉の意味がわからないようだ。
「つまり大きく変えるためには、理由が必要だということだ」
「大きく変えることっていうのは・・・」
「大幅な人事異動、年俸の減額、そして首切り・・・」
「えええっ、首切りですか」
確かに2社の規模が若干違うし、発行している媒体の傾向も微妙に異なっている。しかし、と村上は考えた。それは内部から見ればということだ。もし外の人がこの合併を見て、ふたつの会社を重ね合わせれば、そうとうな部分がはみ出てくる思う。特に共通する事務部分は、倍の人数を必要ではない。多くて3分の2。広告や編集でも同じようなものだろう。問題ははみ出した部分をどうするかだ。会社の幹部には、長年に渡る出版不況と昨年からの金融危機、これらがその「どうするか」の理由付けとなってくれるはずだ。
「社長が田中さんから東山に代わったときに、社員一人ひとりと面談したことがあっただろう。太田ちゃんも受けたかい」
「僕はその、どういうわけか、無かったんです・・・・」
太田はその不安そうな顔を、お品書きで隠した。
「まあ、全員っていうわけでもなかったみたいだね。年寄りから先だったし、きっと途中で飽きちゃったんだろうな」
村上はその面談の意味を考えてみた。前社長の田中は当然のことだが社歴が長く、例外なく社員の採用時には面接をしている。日常的に話をするというタイプではなかったが、それでもすべての社員のキャラクターを掴んでいた。しかし新しい社長となって東山は、ほとんどの社員の顔と名前すら知らなかった。わかっているのは、四半世紀も前に数年だけモータータイムズ社に勤めていたときの同僚だけだが、その数は十人に満たない。だから新社長となった東山は個々の面談を始めたのだろう。それは一人ひとりの意見を聞くというよりも、どんな人間がいるのかという調査であり、また自分自身のプロモーションでもあった。
「その面談で彼は変なことをいったんだよ」
「いったいどんなことですか」
太田はツマミが決まったようで、手を挙げて店員を呼んだ。
「リストラはしない・・・」
「それはいいことじゃないですか」
「リストラの意味、知っているかい」
「・・首切りってことじゃないんですか・・・」
「リストラはリストラクチャリング、つまり再構築の略称だよ。自分たちが持っているモノを正しく配置し直して、もっといいカタチにしていこうということ。それをマスコミが使い始めてから、よくあるように単純な意味に流れて、人員削減として使われるようになったわけさ」
「なるほどね」
焼き鳥が運ばれてきた。太田は七味をかけてそれをほお張る。
「まあ、太田ちゃんがその正しい意味を知らなくても、それは個人的な問題に過ぎないけど、会社の経営者としては大問題だ。たぶん、首切りはしないっていって、社員は安心させようとしたんだろうけど、少なくとも正しい意味でのリストラは必要不可欠で、それをしないなんて宣言したら、経営を自ら放棄するといっているのと同じだ」
「つまり・・」
「つまり、大きな声ではいえないし、社員としてはとても悲しいことだが・・・、彼はバカだ。しかも話には続きがある」
村上は自分のジッキを飲み干した。太田もレモンサワーの残りを飲んだ。氷がカチッと音をたてた。