『第2会議室にて』15
2008年7月10日⑪
「またビールでいいですか」
太田章はそれを村上悟に確認すると、自分のレモンサワーといっしょに注文した。
「ちょっとおもしろくなってきましたね」
「おもしろいことなんかあるもんか」
村上はつまみを頼みたくなって、メニュー表を見る。
「おたまを呼んでもいいですか」
そういいながら太田は携帯電話を取り出した。おたまとは執行部員の河北たまきのことだろう。
「ああいいよ。でもまだ会社にいるかなぁ」
「たぶんいると思いますよ。あの部署はいつも遅いですから」
店員が飲み物を運んできた。彼女に村上がつまみをいくつか注文している間に、電話は終わったようだった。
「彼女、来ますって・・」
その彼女が着いたのはちょうど10分後だった。
「ちょうど帰ろうとしていたトコなの・・」
彼女の後ろにもうひとりいる。やはり執行部員の向井良行だった。
「まさにプチ美女と野獣だな」
村上は二人をそう評した。向井はかなり体格がいい。
「プチだけは余計だと思うけど」
たまきのこの言葉を受けて、向井も口を開いた。
「野獣もよけいスよ」
「あっそれから福田さんはもうスルリと帰っていて、中西さんは広告データが印刷所でバケちゃったって大変そうでした。広告管理の村上さんは行かなくてもいいの・・」
たまきは椅子に座りかけてそういう。
「オレは聞かなかったことにする・・ でもこれじゃなんか執行部会みたいだなぁ」
村上は会社に帰るつもりはないようだ。
「えっ、執行部会じゃなかったの、太田さんが部会だっていうから来たのに・・・」
太田はニヤニヤして村上の顔を見た。
「ねぇ、書記長いいじゃないですか。執行委員の部会にしてしまいましょうよ」
部会にすれば、組合費から経費が出る。
「書記長ってオレか。しかし委員長も副委員長もいなくてイインカイなんてね」
誰もノッテはこない。組合費を使うことはあまりいいことではないが、もう半年も酒を交えた部会をしていないはずだ。しかもこれで書記長の村上と渉外の太田、そして書記次長の向井に教宣の河北が揃ったことになるし、そう村上が思っていると、
「じゃまあ、そういうことで・・・」
太田は無理やりまとめてしまってから、村上にいう。
「で、その話の続きって何でしたっけ。社長がバカだっていう話の続きですよ」
オーダーされていた飲み物とつまみが、いつのまにかテーブルに並べられた。割り勘でなくなると途端に品数が多くなる。村上は、たまにはいいだろうという気持ちになる。
「まずは乾杯だな」
村上のその声にみんなが応えた。
「カンパーイ みんなのための会社のために」
「いや、ただただみんなのために」
「いいえ、わたしだけのために」
突然4人だけの執行部会が始まっていた。
村上は太田に聞かせた話をまた繰り返した。少しだけ内容が違っていたが、それも許容範囲だと太田は思った。
「それでさ。社長との面談の最後、もう終わり近くのオマケってあたりで話題が組合のことになったんだ。その頃、オレは執行部員じゃないし、組合も緊急な課題のなかった時期だしね。まあ雑談の続きという感じで、平常心で聞いていんだけど、組合について彼、なんていったと思う?」
「潰すとか、いったんですか」
そう向井が聞いた。
「それなら、楽しいことになったかもね」
村上が応じた。
「組合員を辞めろとか・・・」
たまきがつぶやいた。
「一人ひとりにそんなめんどくさいことしないだろ」
村上は笑った。
「もう、じらさないでくださいよ」
太田が大きな声を出した。
みんなの視線が自分に集まるのを待ってから、村上はいった。
「おもむろに社長は少し上体をオレの方に傾けて、こうささやいたんだ『なぁキミ、いまどき共産主義でもないだろう』って」
「へーぇ」「うーむ」「いやはや」
三人の反応はいろいろだったが、一様に呆れていたことだけは確かだった。村上は続けることにした。
「労働組合というのは、彼にとっては共産主義と同じなんだ。しかしたぶん、いや確実に彼は共産主義の意味を知らない。オレもあまり知りはしないが、少なくとも自分たちがやっている組合活動とは、ほとんど縁がないことだけは知っている」
みんなが頷いた。
「つまり彼はさっき話したようにリストラについても、共産主義に関しても、極めて薄っぺらなレベルでしか理解していないし、さらに致命的なのは、自分がそれを理解していると思っていることだ。だからオレたちは、どうしょうもないほど無知な相手と対応しなくてはいけないことになる」
みんなの周りの空気が一瞬だけ止まった。でもすぐ後に太田がしゃべり出した。
「よかった。僕はどうやら社長より頭がよさそうだ。自分がリストラも共産主義のきちんとした意味を知らないってことを知っているからね」
彼がそういうと、空気が溶けた。そして少し笑った。それはぎこちない笑いだったかもしれない。しかし彼にムードメーカーの才があることは確かだ。
「あのぉ・・・、私も社長とは面談してないけど、面談した相手とはみんなそんなことを話していたのかしらね」
たまきが酎ハイでちょっと赤くなった顔でいった。
「きっとそうだと思う。オレも社長から同じ話を聞かされたんだけど、実は福田さんとの四方山話で知らされるまで、恥ずかしながらその問題に気が付かなかったんだ。それを白状して置くよ」
「へぇー、そうなんだ」
みんなが不思議そうな顔になった。
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妙子が食事の準備のできたテーブルで福田和彦を待っていると、うがいをしているはずの彼が洗面所で何度もくしゃみをしている。夏に風邪をひくのって、もしかしてバカの証拠だったんじゃなかったかしら、そう思って彼女は少しだけ笑った。