『第2会議室にて』23

oshikun2010-05-20

2008年7月17日④
 太田章が藤田浩二の机の前で油を売っていると、社長室から取締役のひとり小塚一良が憮然とした顔で出てきて、足早に上の階に戻っていった。そして2、3分後には取締役のもうひとり石原信二がにやけた顔で出てきて、自分の机に座ると猛然とキーボードをたたき始めた。二人はほんとうにわかりやすいと太田は思った。
 石原のパソコン作業は10分も持たない。そしていつものネットサーファーに戻っていった。
太田は自分の仕事を続けて、昼前には10人分以上の請求伝票を整理した。その金額を手持ち金庫の中で確認すると、社内掲示板にその旨をアップする。そして5分もしないうちに経理に降りてきたのが、福田和彦だった。
「現金、出てるよね」
福田は開口一番にそういった。
 「おお、1万6000円か、自分で出した金だけど、いつも何かうれしいのが不思議だよなぁ」
 これはいつものフレーズである。そんなにこやかな福田に、コワイ顔を作って太田がいった。
 「福田さん、もう少しきれいな字で書いてくださいよ。解読するのが大変なんですから」
 そういう太田の隣で、経理の小杉裕子もサポートしてくれる。
 「太田くんは福田さんの字を解読するのにずいぶんと苦労しているみたい。だから、私が福田さんの伝票を読めないときは、太田くんに頼むの・・・」
 って、これは助け舟になっていないじゃないか、と太田は思った。
 「そりゃいいや。あのマルクスもかなりの悪筆で、読めるのはエンゲルスだけだった。そこで原稿の読み方を、カウツキーやベルンシュタインに教えたんだってさ」
 と、福田はわけのわからないことをいった。
「あのう。まったく意味不明なんですが・・・・」
「まあ、勉強しておきたまえ。エンゲルスくん」
 福田はそういって伝票に汚い字のサインを入れると、1万6000円を持って自分の席に戻ろうとした。
 「ちょっと待ってくださいよ。副委員長」
 福田はその太田の言葉を背中で受けた。
 「さっき中西さんが質問状を提出したんです。で早速、取締役が三人で対応策を練っていたみたいです」
 太田の声は小さくなっている。石原の席は遠いので大丈夫だとは思うのだが。
 「ふーん、そうなのか。で、どのくらいの時間、相談していた」
 「ほんの20分ぐらいです。最初に小塚さんが怖い顔して出てきて、少し後に石原さんがニコニコして出てきたんです」
 「ということは、社長は石原さんに任せたってことかな」
 「と思いますよ。社長室から出てくると、夢中でパソコンと格闘してましたから・・でも」
 「でも・・・って、なに」
 「その格闘に負けちゃったみたいなんです。10分ぐらいで終わっちゃったから。それで書き上がるとは思えないし・・」
 「もし出来上がったら、彼の場合、必ずプリントアウトするだろうな。紙で読まないと気がすまない世代だし・・・」
 福田は石原の方をうかがった。いつものようにネットサーフィンをしているようにしか見えない。
 「そうですよね。あんまり早く簡単な回答書を寄こしてきたら、なんだか気が抜けちゃう」
 「まあ、提出期限は守ってくれるだろう。高い給料をもらってるし、それが仕事なんだから・・・。こちとら仕事の合間にやらなくちゃならないのとは、大きな違いだ」
 福田が手に持った一万円札をひらひらと振っていると、遠くに委員長の中西信也の顔を見えた。真剣にパソコンのデータを打ち込んでいるようで、こちらには気がつかない。中西さんにも時間をあげないと、まじめだから疲れてしまうだろう。福田はそう思った。回答日は21日の金曜日。たぶんそれまでに戻ってくることはない。まずはどんな答えが返ってくるかお楽しみってところだ。
 「ところで、なぜ東山社長は組合対応を石原さんにさせているかわかるかい」
 福田は机で他の伝票の計算をしている太田に聞いてみた。
 「もちろん、石原さんは組合の委員長なんかをやったことがあるので、その手腕に期待したんでしょうね」
 「うん、確かにそのとおりだ。ただし基本的なことを、社長は見逃しているとは思わないかい」
 「またクイズですか。うーん、僕は計算に忙しいですよ」
 「失敬、失敬、つまりだ。石原さんは前の田中社長しか相手にしていなかっただろ」
 「そうですね。それが何か・・・」
 「前の社長の田中さんという人は、組合としてもスニーカーで登れるような、なだらかな山だった。でも東山社長は違う。まだ霧に隠れているけれど、険しい岩山には違いない」
 「うん、その感じはわかりますね」
 「だから僕たちはザイルを使いこなし、ハーケンを岩場に打ち込んで、よじ登らなくてはならないかもしれない。その方法は、まだ僕たちにだってわからないのに、石原さんが知っているはずはないんだ」
 「うーん、なんとなくイメージできました。で、その登山にピッケルは使わないんですか」
 太田の電卓を打つ手が停まっていた。
 福田は思った。ピッケルは滑落防止の登山用具だったはずだ。だから自分たちの登山にはそれは必要はない。ただ別の用途にそれを使った人がいたことは知っている。