『第2会議室にて』37

oshikun2010-07-05

 2008年7月31日④
 福田和彦は配った紙を組合員が一通り眺めたと思ったあたりで話し始めた。
 「それでは告知にもあったように、これから労働組合についてのセミナーをやりたいと思います。手元のレジュメを見てください」
 「えっ、レジュメって何のことですか」
 そういったのは太田章だった。彼は自分の疑問に素直で、それがすぐ行動を伴う。彼の長所といってもいい。
 「ええと、そうだね、概略とか、概要とか、そんなモノかな」
 「だったら、そういってもらった方がいいかも。福田さんは何かというと難しくいうから・・・」
 珍しく太田は不機嫌だった。やれやれ、始まる前から前途多難だな、と福田は思った。
 「了解。でもお手元の概略を見てください。まあ、高校の社会の教科書に書いてあったようなことが、ただずらずらと並んでいます。授業をさぼっていた人は、今回だけはまじめに聞いてくださいね」
 会議室は静かである。河北たまきが、自分のレジュメのどこかにボールペンでまるを付けた。福田にはほんとうに数十年も前の教育実習の緊張感が甦ってきた。
 「世界史でも勉強したと思うけれど、産業革命、つまりは急激な工業化の中で、その担い手としてのたくさんの労働者が、農村から都市にやってきたわけだけど、彼らはすでに農村の身分的な従属から断ち切れていました。だから彼らが持っているモノ、つまり生活の糧になるものは自分の労働力だけでした。そして工業化には、何よりも自由が必要でした。それは工場を建てる自由だったり、原材料を買う自由、それを加工して販売する自由、そしてその担い手の労働力を買い叩く自由だったのです。そしてその自由の中で労働者はこき使われていきました。さっきの自由といったのは、そういった産業化の自由だったわけです。決して労働者の自由なんかでありません。何でも自由にしてしまえば、予定調和でいい感じになっていくじゃん、という時代だったのです」
 「何で農村から労働力が出ていったんだっけ・・」
 向井良行がいった。
 「いろんな発明が重なって、例えば織物の機械化が可能になったとします。安く作れるし、ドンドン売れる。国内だけじゃなくて海外でも大評判だ。すると羊毛がたくさん必要だ。でも羊を飼う土地がない。ええい、畑を牧場にしてしまえ。ということで、農民は農村から追い出される。地主なんかも農地よりも牧草地の方が儲かりまんな、となる。これがあのエンクロージャー・ムーブメント、囲い込み運動というわけ。ちょっと乱暴なまとめ方をするとね・・」
 「それじゃ作らなくなった農作物は、どうやって手に入れる。着る物があっても食う物がなくては大変だぞ」
 村上悟の正しい質問だ。
 「織物で儲かっているんだから、その金で外国から買えばいい、ということで通貨は流通し、貿易が盛んになり、イギリスは世界の工場となった」
 「そしてフランスはイギリスのための農園となったわけだね」
 今度は中西信也だった。
「まあ、そんな感じかな。そして工場は当然のこととして、効率性を求める。結果として、労働力は低年齢化して、労働時間も増える。まさに会社のやりたい放題だったのだけれど、労働者もこき使ばかりでは身が持たない。疲弊のあまり労働力としての質が低下してしまう。これでは経営側も困ってしまう。そこで労働力を維持するために、ある程度の規制が必要になってくる。労働者のためではなく経営側のためにね。最初の労働者というのは、こんな状態に置かれていたんだということを、押さえておいて欲しい」
 「今とあんまり変わらないような気もするけど・・・」
 太田はいいことをいってくれたみたいだ。