ありがちな風景

oshikun2010-07-04

 『1Q84村上春樹(新潮社)
 『1Q84』の3を発売日のすぐあとに買っていながら、まだ手が出ていない。これは小説の村上作品としては今までになかったことだ。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の頃には、仕事の隙間を見て書店に買いに出かけ、さらに用事を作っては地下鉄のホームで読み漁った記憶がある。でもその情熱も『ねじまき鳥クロニクル』あたりで急速にさめてしまったようだ。しかし、これほど長く放置しているということは、いままでなかった。どうしたことだろう。
 少し考えてみると、どうも私は一見ちっちゃな理由で、その3になかなか手を出そうとしないようだということが、薄らボンヤリとわかってきた。
 前にも書いたことがあるかもしれないけれど、またヒートし始めた『1Q84』の1と2を読んで、私が一番奇異に感じるのは、ふたつの月が出てくることだ。
 なぜ奇異に感じるかといえば、まず第1にふたつの月が浮かぶ風景というのは、その場が現実、あるいは読者の世界とは違う、いわゆるパラレルワールドであると表現するための、あまりにベタな方法だという点だ。これはSF小説の挿絵などで使い古されている方法で、何をいまさらという感じと、あまりの安直な印象が、どうしてもまとわり付いてしまう。
 第2にいえるのは、もしふたつの月が地球に存在していたら、何かと不都合なことが地球上で起ってしまうことを、なんらフォローしていない点である。
 太陰暦を始め、潮の満ち干、生物の生殖活動など、ひとつの月ならばこそ事象はあまりに多い。イスラム諸国の神話や国旗などなどはひっくり返ってしまう。つまり『1Q84』ではパラレルワールドのドミノを、ひとつだけ倒しておきながら、それに続くドミノはまだ立ったままになっているのだ。
 今までの村上作品の小説、少なくても『世界の終わり・・・』ぐらいまでは、このような「些細なほころび」は見当たらず、あるいは見つけられず、つまり緻密が構成に圧倒され続けていたものだ。
 さて、そのドミノ、『3』や今度の『考える人』の「ロングインタビュー」ではとんでもない展開を果たしているかもしれない。そして私がなんてちっちゃなことを問題にしていたのか、と頭を抱えるほどに打ちのめして欲しいものである。そのためにも、そろそろ本棚に一番上に書店のカバーを巻いたままの3を開くことにしよう。