『第2会議室にて』41

oshikun2010-07-20

 2008年7月31日⑧
 福田和彦は、さっきから言葉に迷っていた。自分のしゃべっている単語の一つ一つが、自分とは別の場所のモノのような感覚があるのだ。なるほど教師はいい。教科書に身を隠して、その内容を噛み砕いて生徒に伝えればよいのだから。しかし自分にはそんな指針はない。ただ茫漠と、現状をなんとかできないだろうかという気持ちがあるだけだ。組合員に組合活動の基本を伝えるなんてことは、ほんとうなら「釈迦に説法だ」と笑われるべきだ。でもそうではないところまで事態は進んでしまった。カーライフ出版との合併まであと半年もないのに、こちらはほとんど何の対応策も取られていない。
 福田の沈黙のちょっとした隙に、中西信也が話し出した。福田はありがたいと思った。
 「闘うという言葉は、少しツライんじゃないかな。もちろん今まで組合で使われてきたってことは重々承知だけどね。とぃっても他に何かいいのがないかと思うと、なかなか出てはこない」
 村上悟はレジュメを見ながらいう。
 「行動っていうのがいいんじゃないか。まあ、こっちも硬い言葉だけど、闘うというよりはまだ和やかな感じだ。それにこれ、労働三権の行動権っていうのがあるしね」
 「そうだね。ストライキなんかをする権利の争議権は、別名団体行動権と呼ばれている。闘うっていうよりも行動するっていったほうが、優しい雰囲気だね」
 中西もしっかりレジュメを読んでいた。
 「会社も組合から『闘争します』っていわれるよりも、『行動します』っていわれた方が、まだ穏やかでいられるかもしれない」
 そういったのは総務部の若手だった。
 「闘うっていっちゃうと、どちらかが傷つくまでやるというイメージだけど、行動なら双方がにらみ合うって感覚でいられるよね」
 向井良行が少し微笑みながらいった。
 「でも何かつまんないなぁ。よくわからないけど、ドキドキしないっていうの」
 不満げなのは河北たまきだった。
 「確かに安易に言葉の言い換えしてしまうのは危険なことでもあるんだ。デモ行進をパレードと言い換えたり、労働組合を従業員組合にしたりするのはいい例だね。言葉にはそれぞれ歴史があり、そしてその言葉を使ってきた人の魂も入っていると思う。それを無視して一般受けしやすい言葉に変えていくのは問題だとは思う。でもそういった反面、自分とかけ離れた言葉は、使いたくない。そのあたりのバランスが大事なんじゃないかな」
 福田は言葉の問題をそうまとめようした。論議は枝葉に及んで幹まで戻ってくるのが難しい。
 「まぁ、とにかく闘いでも、あるいは行動でもいいと思う。それを始めるための自分たちの気持ちと自分たちの方法、それをしっかりと確認できれば、それは意外とたやすいことだっていう話だったよね。で実際にそうなんだと思う。今まで何でやらなかったのか、って思うぐらいにね」
 「それさえすれば年俸の大幅ダウンもなかったのかな」
 太田章がポツリという。
 「もちろん、それは会社側の大勝利、しかも予想外の大勝利だったはずだ。裏を返せば、こちら側は何の手も下さず武装解除に応じてしまったというわけだ」
 福田はつい軍事用語を使ってしまう。自分でも悪い癖だと思う。
 「少なくとも、何らかの行動を起こせば、20%のダウンではなく15か10ぐらいにはなっていただろうし、何より会社側は次の手を出しにくくなったはずだ。早い話、合併という妙薬に手を付けていなかったかもしれない。あくまで想像だけどね」
 「じゃ、どうして福田さんはそのときそういわなかったの。今頃いうなんて、なんか卑怯かな」
 河北たまきは、さらに不満そうにいった。
 「いやその通り、面目ない。でも自分もみんなと同じだよ。少しぐらい給料が減ってもそれが世間並みだなと思ったし、組合活動には何の関心も期待もなかったからね」
 「いまから何とかならないものだろうか」
 広告部員の一人がいった。
 「年俸制になってもう3年だからね。そういったすでに決まったことを元に戻すのは難しいと思う。逆にいうと自分たちの地平は、そこまで落ちてしまったということなんだ。賃金水準だけじゃなく、労働環境や力関係といったものも含めて・・・」
 福田はまた気取った言葉を使ってしまった。でも確かにその通りだと思う。自分たちの水準はどんどんと落ちている。そして自分たちが行動を始めれば、とりあえずその地平を支えることになる。そしてその先に別のものが見えてきたら、それはそれでいい。
 ところで、自分たちはいったい何を話していたんだっけ。
 会議室の時計はもう午後8時を指していた。