柴又、記憶のうちに27

 策を弄してよこわけに
 柴又へ引っ越してくる前は、親が勤める会社の近くの寮に住んでいて、散髪も会社の厚生施設で済ませていた。だから柴又に来るまで床屋にいったことはないはずなのだが、「伝説」によると本当に小さい頃、泣き叫ぶ私を二人がかりであやして、ちょっとした隙に髪をかっていたという。しかしまあそれは別の話。
 柴又で都合4年間通うことになる理容室には、大きな水槽が設えてあって、やはりかなり大きな熱帯魚が泳いでいた。水槽の底には海藻やサンゴ、それに貝殻がまことにうまい配列で並べられ、その隙間を魚たちが泳いでいる。その頃の床屋は予約を入れるのではなく、ただ来た順に散髪をしていくので、先客がいればその分待たされることになる。その水槽はその客のためのソファの目の前にあって、その時間をずっと魚たちを眺めて過ごした。後日、自分で熱帯魚を飼うことになったのは、この店の影響かもしれない。
 当時の小学生の男子は「坊ちゃん刈り」とでもいうのだろうか、前をまっすぐに揃える髪型が一般的だった。しかしませてくるとそれがとてもいやになってくる。できれば「よこわけ」にしたいのだけれど、なかなか床屋さんには言い出せない。しかもそういった髪型をしてくると学校ではからかいのネタとなる。それを「髪がジャマなんで横に流しているだけだよ」とまさに流しているとやがてそれが市民権を得て、からかいの対象ではなくなる。級友のMクンはそうやってクラスのよこわけ第1号となった。そして私も頭に怪我をしたことをきっかけにして、その第2号か3号の栄誉に浴することになった。
 1969年の小学校の卒業アルバムには、坊ちゃん刈りのみんなに混じって、よこわけのMクンと私が並んで写っている。★40年以上前にお世話になったバーバー五十嵐は健在だった。最初に行ったにはこの漢字が読めずに、何だ「ごじゅうあらし」って、と思っていた。そんな小学生のためにではないだろうが、今はひらがなで表記されている。