柴又再訪

柴又、記憶のうちに30 最終回

時を刻む駅前の寅さん この「連載」の一回目で書いたように、私が柴又に住んだのは小学2年の終わりから6年の終わりまでの4年間だけなのだが、執拗なまでにここにいろいろと書きながら、まだ書き足らない気分でいる。しかし数少ない読者の皆さんも、いい加…

柴又、記憶のうちに29

友だちんちの二階 友だちの家といえば一戸建てかアパートだった。昭和40年代の柴又にはマンションはほとんどなかったのである。小学生の高学年ともなれば自転車で走り回ることもあったけれど、それまではもっぱら友だちの家の前の通りか、家の中で遊ぶことに…

柴又、記憶のうちに28

未だ鉄ちゃんならず 断定はできないのだけれど、柴又に住んでいた頃は、自分一人とか友人とかで電車に乗るということはほとんどなかった気がする。電車に乗るよりも、私たちは歩いたり自転車に乗ったりして、どんどんと遠くまで出かけていった。 北は釣りを…

柴又、記憶のうちに27

策を弄してよこわけに 柴又へ引っ越してくる前は、親が勤める会社の近くの寮に住んでいて、散髪も会社の厚生施設で済ませていた。だから柴又に来るまで床屋にいったことはないはずなのだが、「伝説」によると本当に小さい頃、泣き叫ぶ私を二人がかりであやし…

柴又、記憶のうちに26

お肉屋さんの儲け 柴又再訪の「16」で取り上げた北の湯の目の前には、一軒の肉屋さんがある。シャッターは下りていたけれど、いまも健在のようだった。 かつての日々、ここ店頭には小学校の上級生や中学生の男の子が列をなしていた。彼らは一様にひとり一枚…

柴又、記憶のうちに25

小さくなった映画館跡地 「こんなに小さくはなかった」という思いが広がっていった。 そこはかつて映画館があった場所。今では某スーパーの事務所になっている。1960年代の数年間、私はここにあった映画館で「サイダ対ガイラ」、「南海の大決闘」、「キ…

柴又、記憶のうちに24

やがて歴史となる7円切手 子どもの頃、お年玉クジ付きの年賀状をチャックするのがとても楽しかった。 いま年賀状は昔のようにたくさん書かなくなってしまったし、その日までにどこかに行ってしまいそうだ。いやいやその当選のチェックすら面倒な気さえする…

柴又、記憶のうちに23

おばさんへのお礼の言葉 柴又駅を出て駅前広場を過ぎ、左にある踏み切りを渡るとすぐに蕎麦屋がある。ここには一度だけ入ったことがある。柴又で暮らした4年間、外食はほとんどしたことがない。せいぜい夏にカキ氷を食べるぐらいで、だいぶ前にもんじゃ焼き…

柴又、記憶のうちに22

文鳥と古本 たぶん古本屋に入るのは初めてだっただろう。父と二人でその店に入り、父がたまたま見つけてくれたのが『文鳥の飼い方』という本だった。当時、私は手乗りの白文鳥を飼い始めたばかり。50円という価格にびっくりしたが、今も古本屋の均一台にはそ…

柴又、記憶のうちに21

アオスジアゲハと自転車 そのみんなにはあまり知られていなかった公園を、私はたまたま神社の森にセミ取りに行って、見つけた。そこは柴又駅の近くで、表通りからは見えにくい位置にあった。当時は神社と公園を隔てるフェンスは無かったと思う。 まだ買って…

柴又、記憶のうちに20

読んでは描いてのマンガの日々 柴又で暮らしていた頃、小学生の関心事の中心のひとつが漫画雑誌だった。しかし数多くの月刊誌、週刊誌の中で、フォローできたのは少年サンデーとマガジンのみ。この2誌は友達と交換して読んでいたのだ、担当したのはサンデー…

柴又、記憶のうちに19

おじさんの技量 柴又に引っ越してきた日、一家は一台のトラックに乗ってやってきた。運転席の後ろに仮眠の空間があったのでそこに母親と妹、そしてシートにはドライバーと助手、そして父親と私が座った。ドライバーは時たま私に首を引っ込めるようにいう。警…

柴又、記憶のうちに18

公園とおたまじゃくし 小学生の放課後の行動範囲の北限はせいぜい金町公園までだった。何らかの用事で水元公園や金町駅まで行くことはあっても、それは休日に限られている。南の行動範囲なら鎌倉公園ということになる。ここには面白い遊具があったが、なにせ…

柴又、記憶のうちに17

缶蹴りと銀玉鉄砲と校舎の模型 当時の小学校校舎は木造の2階建てだった。ややいびつなL字型で、角の部分は離れている。L字の底の先にはちょっと離れて音楽教室があり、よく児童にいじめられていた先生がそこでオルガンを弾いていた。そこは缶蹴りの集合場…

柴又、記憶のうちに16

サンダ対ガイラと酒井和歌子 アパートに風呂がなかったので、小学2年の最後から6年の秋までは銭湯に通った。一番近い場所にあった北野湯は、アパートから歩いて3分ほどだった。だから寒い冬でも湯冷めはしない。洗面器に手拭いと石鹸、シャンプーを入れて…

柴又、記憶のうちに15

記憶のいづみとしての駄菓子屋さん その「いづみ」という駄菓子屋で買い物をするとき、10円の品物は最初から眼中にはなかった。お目当ては5円で買えるもの。その日のその一点を探すために、ガラス蓋の下に並んだ商品群をゆっくりと眺める。やがて候補が決ま…

柴又、記憶のうちに14

文房具店で学んだこと この店はお菓子と雑誌、そして文具を売っていた。しかしいつもそのコーナーを回遊するように品定めしたのは意外UBSI文具売り場だった。面積にすれば、たぶん20平米にも満たない非常に狭い場所だったが、それでも子どもには細々とし…

柴又、記憶のうちに13

病院の明かりが灯るとき そろそろ子どもの寝る時刻、ということは夜の9時頃のことだろう。 親と何らかの言い争いをして、いやいやながら牛乳瓶を2本、アパートの階段下に降ろしにいった。ちなみにその頃の我が家族は、柴又三丁目のアパートの二階に住んで…

柴又、記憶のうちに12

鉄塔の光と影 この鉄塔は柴又で目にする最大の構築物だった。 アパートからおよそ100メートルの距離。どうして電線の下には家が建っていないのだろう、とその頃は不思議に思っていた。ある日、その意味を知らされて納得したが、それまでは何もない土地が…

柴又、記憶のうちに11

原初的なカスタムカー 柴又の小さな商店街には、ラーメン屋と模型店が並んでいた。 今では素のラーメンを注文する人は少ないかしれないが、当時はこれこそが本道で、その内容も今より充実していたように思う。ただしもっぱら出前だけで、店内で食べたことは…

柴又、記憶のうちに10

カラーテレビの誘惑 カラーテレビを初めて見たのは、柴又の小さな商店街の電気屋だった。 ショーウインドウの真ん中に、レコードプレイヤーやトランジスタラジオを家来のようにしてそのカラーテレビは鎮座していた。そのテレビが映るのは夕方の人通りの多い…

柴又、記憶のうちに 9

空き地と50円玉 赤土と呼ばれた空き地があった。囲いはなく、何かが置いているわけでもない、それはまさに空き地だった。子どもたちの間で書き文字になったことはないので「あかつち」か「アカツチ」だったのかもしれない。そこには何にもないので何にでもな…

柴又、記憶のうちに 8

3つの塾通い 柴又では短期間ながら書道教室とそろばん塾、そして小さな学習塾に通った。しかし字がうまくなったり、計算が速くなったり、頭が良くなったりすることはなかった。 ひとつぐらいどこかに通うというのが、当時の塾通いの定番だったのかもしれな…

柴又、記憶のうちに 7

初デートはもんじゃ焼きテイスト? 柴又には神奈川県の大船から引っ越してきた。田んぼが広がる当時の大船からすれば、柴又も都会である。その小学2年生を最初に襲ったカルチャーショックは、なんともんじゃ焼きだった。 同じアパートに住んでいた女の子に…

柴又、記憶のうちに 6

わが愛車はセミ・ドロップ 自転車を手に入れることは、子どもにとって成長のひとつ階段。行動範囲が広がり、スピードを自分のものとする。そして社会の決まりごとを確認する。少なくとも少し前の時代はそうだった。 しかし自転車を買ってもらったのは遅かっ…

柴又、記憶のうちに 5

子どもに客として対応する商店主たち 当時の小学生の実習に「水鉄砲作り」というのがあった。水鉄砲というと、どんなものを想像するだろうか。ピストルを模したプラスチック製のオモチャか。あるいは機関銃のような形をしていて高い圧力で水が飛び出すやつだ…

柴又、記憶のうちに 4

無テーマパークとしての河川敷 柴又帝釈天の山門の前を左に行くと、参道と平行して柴又街道から江戸川の堤へと向かう車道があり、堤に突き当たる場所にあるのが料亭「河甚」だ。ここは寅さん映画の第1作でさくらの結婚式が行なわれたところだが、子どもの頃…

柴又、記憶のうちに 3

帝釈天でのお買い物 いまや全国的に有名な柴又の帝釈天も、40年前の小学生にとってはただの遊び場だった。松の木の枝振りや本殿の周囲にある彫刻の見事な点は理解できたが、やはりそこは自転車で走り回る場所で、渡り廊下の下を頭を低くして通り抜けるアトラ…

柴又、記憶のうちに 2

喧騒の中の落し物 柴又帝釈天では年に何回か庚申と呼ばれるお祭りがあった。近くに住んでいた小学生時代はその公式行事に関心はなかったのが、参道に立つたくさんの出店を眺めて歩くだけでもとても楽しかった。 山門近くの飴細工の出店では、小さなハサミひ…

柴又、記憶のうちに 1

駅前の小さな変貌 11月6日に柴又に行ってみた。 この町には1965(昭和40)年から68年暮れまで約4年間暮らしたことがある。年齢でいうと9歳から12歳、学年だと小学2年生の終わりから6年生の2学期後半までだ。もう40年以上前のことになる。…