トビラの三冊

 このブログの扉写真のために、なにげなく手に取った三冊。それは内容とかそういうことでなく、なんとなく写真映りがよさそうな本を机の近くから三冊ほど手に取ったわけではあったのだが、奇しくもすべてがアメリカの現代文学となってしまった。しかも二冊はピューリツァー賞、また組み合わせを変えると二冊が柴田元幸さんの訳出で、二冊が新潮社ということになる。・・まあ、そんなことで(どんなことだい)、この三作について、ちらほら思いついたことを書いてみたくなってしまった。
 『停電の夜に』(小川高義訳/新潮社)でひかれるのは、まずその装丁である。スパイスがきちんと区切りのある箱に入っていて、それを上から撮影している。その色がまさにいい味を出しているのだ。この新潮クレスト・ブックスの表紙は、どれも見事なので、インテリアとしてもそのへんにポンと置いてもかっこいい。定価が1000円ぐらいなら、全部集めてしまおうかなと思ってしまいそうだ。しかも不思議なくらいに軽く、本らしい重厚感がないのが、ある意味いい。
 著者のジュンパ・ラヒリは、両親がカルカッタ出身のイギリスの生まれ、子どもの頃にアメリカに渡ったという。その略歴に添えられた写真はとても美しい。5年後の『その名にちなんで』でも同じ写真が使われている。まあこれは日本側の意向なのだろうけれども。
 そして内容なのだけれど、収められた短編が、それぞれ相当の個性の持ち主だといえる。よく短編集というと、展開に違いそこあれ、作者独特の同じような味わいがこびりついているので、しばらくすると個々の物語を忘れてしまうことがあるけれども、ここに集められた短編はそんな心配はない。しかしもちろんアンソロジーのように、ただあるコンセプトで集めました、というのでもない。それぞれにちゃんと書き手のテイストが込められているのだ。
 ということで、遅まきながらに気付いたのだ。表紙の小分けのスパイスは、まさにこの短編たちを表しているのではないか、ということを。
 『幻影の書』(柴田元幸:訳 新潮社)は、今のところ日本で読めるポール・オースターの最新作であるようだ。私は彼の「ニューヨーク三部作」の頃からずっとフォローしてきたけれど、その頃に比べると歳のせいか、ページをめくるトキメキがだいぶ小さくなってきたように思う。
 しかしオースター自身の想像力は、そんな年寄りのゴタクとは関係なく、ますます旺盛のようだ。この小説はそのタイトル通り、イリュージョンの本である。映画は光を通して影として表現される。それはほんのひとときの幻影に過ぎない。もちろんこの物語で、微に入り細に入り表現されている、いくつかの架空の映画もまたイリュージョンである。すでに歴史に埋もれ、ほとんど誰も知ることのない映画作家、彼の関係者と主人公が接点を結ぶことで主人公はその映画作家に近づく。しかしその影を捉えることはできない。これはその構図から『白鯨』にも似ている。
 余談というか、「本談」なのかもしれないが、オースターはこの小説に出てくる映画のひとつをのちに制作してしまうのだ。架空であったものを実在されてしまう試みにも驚かされるが、小説ではそれは遥か昔に作られたモノという設定になっている。さて、この時系列のパラドクスは、どのように終演を迎えるのだろう。
 『マーティン・ドレスラーの夢』(柴田元幸:訳 白水社)は、スティーヴン・ミルハウザーの初めての長編だという。19世紀末から20世紀初頭を舞台に、葉巻屋の息子がやがて巨大ホテルを建てるという物語は、一見して「アメリカン・ドリーム」であり、実タイトルにもそうあるのだが、そのドリームの意味することは成功ではなく、まさに夢、夢の世界なのだ。
 巨大なホテルも、主人公にとっては子どもの頃の葉巻屋(この設定がオースターの『スモーク』と重なるところも面白い)の店先のディスプレイとなんら変わりがないのだ。彼にとって必要だったのは、客室という空間ではなく彼の夢の「玩具」を持ち込む空間だった。その「玩具」にふさわしい場所として、彼の塔は上だけでなく、地下にも伸びていく。まさにミルハウザーの世界が大きく膨らむ世界である。
 作者を最初に知ったのは、アンソロジーである『and Other Stories とっておきのアメリカ小説12篇』で、短編の『イン・ザ・ペニー・アーケード』を読んだことによる。そこでの主人公のゲームとの関係は、私に浅草の新世界の記憶を呼び覚ましてくれた。そういったことから考えると、彼は読者とほのかな記憶を共有する作家といえるのかもしれない。★ちなみにピュリツァー賞を獲得したのは、『停電の夜に』と『マーティン・ドレスラーの夢』の二作です。