『第2会議室にて』20
2008年7月17日①
委員長の中西信也は出社すると、いつものように受信メールを確認した。緊急な要件が印刷会社の営業から入っている。こういったことが週に何回かある。そしてそれは月曜日に集中していた。キリキリと胃が痛む。すぐにメールの発信者に連絡すると、基本的な問題はすでに製本の現場で解決できそうだという報告を受けた。雑誌の付録になっていたDVDのケースが少し大きく、それが搬出時の梱包に不具合を生じさせていたが、現場責任者の機転と工夫で何とかなりそうだというのだ。メールの相手はいただいた電話で恐縮だが、その方法を了解して欲しいという。中西はそれを了承し、お礼の言葉を付け加えた。
メールを開けたときは、すぐにでも製本会社に行かなくては思っただけに、一瞬で緊張した身体が、ゆっくりとほぐれていく。その心地よさを中西は椅子に座りながら味わっていた。そしてその気持ちのままに、彼は引き出しの中から一枚の紙を取り出した。少しだけ緊張するが、さっきのメールほどではない。それは先週末に組合執行部でまとめた会社への質問状だった。先週末に印刷済みで、労働組合の印も捺してある。その印の赤さが一枚の紙を引き立てている。捺した場所もなかなかバランスがいい。中西はその紙を持って立ち上がると、1階に通じる階段へ向かった。
提出する相手の石原信二取締役の席は、総務セクションの窓側にあって、彼はいつもパソコンを眺めている。それが仕事に関係するものかどうかはわからない。大きな机にはほとんど書類が置いていない。中西が近づいてもパソコンから眼を離さない。先に気付いたのは隣の部署の太田章だった。中西にもそれがわかったようで、太田の方に右手に持った紙を持ち上げて合図を送った。太田はオーバーアクション気味に握りこぶしを胸に当てる。そのポーズに石原が眼を向けようとしたとき、その視線を遮るようにして中西は石原の前に立った。そしていった。
「石原さん、おはようございます」
彼は座ったままの石原に、間髪入れずに続けた。
「ご存知かとは思いますが、先日、組合集会が開かれました。その場で会社の合併についてさまざまな意見が出ました。組合執行部としても、そういった疑問をそのままにしておくわけにはいかないので、特に意見が集中した件に関しての質問状を提出することにしました。これがその文面です」
石原は結局座った状態で、ぎこちなくその質問状を受け取った。彼が取締役として組合から何らかの書面をもらうのは初めてのことだ。少し口を開いたままで、その文面を読んでいる。
「ご回答を期日中にお願いいたします」
中西はそう締めくくった。
「わかった。よく、よく読んでお応えしましょう」とだけ石原はいう。
その言葉を聞いて、中西は足早にその場をあとにした。石原は中西が目の前から消えたことを確認して石原は椅子に深く座り直すと、もう一度最初から、その質問状を読み返した。そして彼は内線電話を掛けた。もう一人の取締役、小塚一良の電話が鳴った。
「いま、組合の委員長から質問状が届いたんだ。どうしたものか、少し相談したいのだけれど、時間はあるかな」
小塚の時間は有り余っていた。彼はすぐにそちらにいくと返事をした。電話を置くと、石原は腕組みをして、椅子を反られて長い時間天井を見ていた。まるでそこに何かが書いてあるかのように。パソコンの画面は先ほどのままだった。
やがて石原の席に小塚がやってきた。
「これだよ」
小塚は紙を受け取った。それを一読して彼はいった。
「連中、まだ甘いな。これならどうとでもなるでしょ」
「そうかな」
石原にその意見には賛成できないようだ。
「文面もずいぶんと穏やかだし」
小塚が石原の大きな机の角に腰を載せていう。
「しかし社長には相談しないわけにはいかないだろう」
石原はまた電話を取った。
「はい、いまよろしいですか。はい、ちょっとお話したいことがあるので、いえ、お時間は取らせませんので・・」
電話を戻して石原がいう。
「少し社長と相談してみよう・・・」
そういった彼は立ち上がった。
「確かに、宛先は社長だしね」
そういって小塚は石原のあとを追った。石原が社長室のドアをノックすると、ふたりはドアのところで頭を下げてから中に消えていった。
その一部始終を太田は見ていた。彼の机は絶妙な位置にある。