『第2会議室にて』21

oshikun2010-05-14

 2008年7月17日②
 組合の質問状を持った石原信二と小塚一良の両取締役が、社長室に揃って消えるのを見届けると、太田章はまた自分の仕事に戻った。手元には大人の字とは思えないほど悪筆な現金請求伝票の束がある。特に福田和彦のそれは最悪だ。もう少し字がキレイだったら、あの人もイイ人なのに、と太田は少し思ったのだが、いやそんなことはない、とすぐにそれを否定した。字が下手なだけでなく、彼の場合は計算間違いも多いのだ。
 そんなことを考えていたら、社長室に入った小塚がすぐに出てきて、あたりを見回している。手に紙を持っているところを見ると、どうやら質問状をコピーしたいようだ。しかしこの1階は彼の職場ではないので、コピー機の場所を知らないらしい。誰かの助けを求めているのだろうが、誰も彼と視線を合わせようとはしなかった。太田もパソコンの画面に視線を移して、横目でかれの動きを追った。
 どうやら彼は近くのコピー機を見つけたみたいだ。でも今度はその使い方がわからない。それは電気代を節約するために、時間が経つと自然にスイッチが切れるようになっている。いくつかのスイッチを押したあと、彼はやっと主電源が入っていないことに気づいた。でも作動するまで時間が掛かる。電源が切れていない機械が近くにあるだが、誰も教えない。普段からコワモテの彼の顔がさらに険しくなっていく。
 何分かしてやってコピー機の作動音が聞こえた。彼は2枚だけコピーを取って社長室に戻った。ちょっとだけドアを閉める音が大きかったように思う。
 そしてまた太田は現金請求伝票の仕事に戻って、「福田さんの字はやっぱり最悪だ」と思う。彼の伝票は、検算のためにいちいち数字を解読しなくてはならない。これは7なのか1なのか。あるいはこれは6なのか0なのか、といったあんばいである。その度に彼の電卓が止まるのだ。
 今度会ったら絶対に注意してやろう。でも絶対にヘラヘラと笑っているだけだろうな、と彼が思っていると、今度は石原が社長室から出てきて、庶務係長の藤田浩二のところに来て何かいっている。
 藤田は庶務のほとんどの仕事を背負っているような人で、机の上は書類が堆積している。石原は何かの資料を求めているようだ。藤田はその書類の山や机の中を探しているのだが、なかなか見つからない。石原は他の庶務課の社員にも声を掛けるが、みんな首を横に振っている。いったい何を探しているのだろう。石原はとうとう自分の机の中も探し始めた。それなら最初からそうすればいいのに。そうこうして10分ほど経ったところで、藤田はやっと少し黄ばんだお目当ての書類を見つけ出した。それを奪うように受け取ると石原は急いで社長室へ向かった。またドアを閉める音が大きかった。
 太田はちょっとしたから藤田のところにいって、彼に聞いてみた。
 「石原さん、何を探していたんですか」
 「労働協約だよ」
 藤田は書類の山を片付けながらいった。
 「えっ、取締役がそれを持っていないんですか・・・」
 太田にしても絶句せざるをえない。
 「いや石原さんは持っているけど、どこかにいっちゃったんだろうな。それにそれを社長に渡すともう返してくれないし・・・」
 「社長は持ってないんだ」
 「・・・内緒なんだけれどね。あの人は頭の中にだって『労働協約』を持っていないと思うよ」
 「えっ、それって中身を理解していないという意味ですか」
 「いやいや、その言葉の意味がわかっていないということだよ」
 藤田は事務方として最近まで取締役会議の書記役をしていた。だからこの言葉はかなり重い。また執行部会で話すネタができたと太田は思った。