『第2会議室にて』22
2008年7月17日③
労働協約をやっと手に入れた石原信二が社長室に戻ってきた。するとソファに座っている社長の東山徹三は、座り直した石原と小塚一良の二人をにらむようにしていった。
「コピーを取るのに5分、その書類を取ってくるのに10分、きみたちの頭の中には準備っていう言葉がないようだね」
「失礼しました」
「申しわけありません」
「これはウチウチのことだから許されるけれど、外部との交渉事ではあり得ないことだよ」
東山はソファの上で足を組み直した。
「じゃ始めようか。なんだっけ、組合の、その質問とやらは・・・」
石原と小塚は安心したように顔を見合わせた。それがまた東山には気に喰わない。
「最初の質問は合併についてです。人事など、まだ何も知らされていないけれど、どうなるのか、ということです」
石原が解説するようにいう。
「そんなこといわれたって、知らせようがないよな。まだ何も決まってないのだから」
「確かのその通りですね」
小塚が東山の相槌を打つ。
「ただし決まっていることがある。両社の給料の水準を平らにするということだ。その辺のことをうまく答えておくかな」
ソファに浅く座っている石原は、もう少しで下に落ちてしまいそうだ。
「下がるって書いていいんですか」
「何をいってるんだ。変わることを匂わせば、それですむことだろ。あっちだってそれほどバカではないから理解するよ。で、次は・・・」
東山はまた足を組みなおした。このソファはすわり心地が悪いようだ。
「次の質問は労働協約についてです。更新が滞っているので、その要求ですね。労働協約の確認をしろ、ってことです」
石原が東山に労働協約の冊子を渡した。
「よくわからないんだよね。これって。いままでは労働組合のない会社でやってきたからね。そのへんはきみたちのほうがくわしいんだろ」
「ええ、まあ、しかしそんな時代でもない気がします」
その身体に似合わない小さな声で小塚がいった。
「そうだろ、そうだろ、そう思うんだよ。いまさら労働運動じゃないだろ。共産主義だって時代遅れなんだから・・ねぇ」
「まあ、ちょっと共産主義とは違うんですが・・・」
石原の声もまた小さい。
「えっ、違うの。労働組合っていうのは、共産主義を目指すのかと思っていたけど、そうじゃないの。でもさ、この労働協約っていうのをよく読むと、とんでもないことが書いてあるよね。まるで自分たちが会社の主人っていっているみたいじゃないか。だから共産主義っていったんだけどね。いっちゃ悪いが、こんな約束を更新する気はまったくない。これって問題なのかなぁ」
「いぇ、社長がそうお考えなら、その線で進めていいと思います」
石原はそういう。
「時代が変わったんですよ」
小塚もそれに追従する。
「じゃ、その線でいこうか。そして次はなんだっけ」
「三つ目は業界紙のインタビューに関するものです。休刊を考えているという発言を問題にしています」
また石原が質問内容をまとめた。
「これもふざけた話だな。社長が休刊について言及してどこが悪いのかね。そんなことは経営陣の専権事項だよ。そう応えてもいいけど、角を突き合わせたくないから、そんなことがないように経営努力するとか書いておくかい」
「それでいいと思います」
石原はあまり語彙がないようだ。小塚ほどではないが。
「まあ、そんな感じで原ちゃんがまとめてくれるかな」
東山は石原のことを、昔の同僚時代と同じように原ちゃんと呼んでいる。
「それからヅカ、ヅカは組合との交渉については、基本的には関与しなくていいから・・・」
「・・・えっ、そうなんですか」
ヅカと呼ばれた小塚は意外な展開に驚いた。ヅカというのも昔の呼び方だ。しかし東山や石原よりも年齢が少し若いので呼び捨てになっている。
「いや、あんまり船頭がいてもしょうがないからね。どう対応するかは原ちゃんと考えることにする。だからヅカはもう席に戻っていい。気の利いた妙案でもあるっていうのなら別だけれど」
社長からそういわれて、小塚はいったいどうしたらいいかわからなくなった。妙案など浮かぶはずもないし、何かを考えついたとしても、それを提案するのはかなり危険だ。交渉役を任されて、失敗すれば責任を取らなくてはならないだろう。自分も石原と同じように、ただ指示に従っていればいいのかもしれない。そう思った小塚の顔を石原が見ていた。そして石原は小さく頷く。それを合図に小塚は立ち上がる。
「午後には広告展開の会議があるので、その準備をしなくてはなりませんから、この辺で失礼させていただきます」
「そうそう、準備だよ、準備。大切なのは準備だからね。いつも頭に入れておくように」
東山社長は小塚の方を見ずにいった。
「では失礼します」
その小塚の声を二人はもう聞いてはいなかった。
「とにかく、回答書の文案は原ちゃんに任すので頼むよ。きちんということはいっても、決して向こうには情報も譲歩も与えないように。そして、できたら一応私に見せてくれるかい」
「大丈夫です。その辺は任してください。伊達に何年も組合の委員長をやっていませんから」
石原は立ち上がりながらそういった。
「そうか、原ちゃんって委員長をやったことがあるんだ」
東山がそれを知らないはずはないと、石原は思った。
「何年も前のことですが・・・、手の内はわかっているつもりです」
石原はドアのところに立ってそういった。しかし東山はもう石原を見てはいない。
「期待しているよ」
手元の「労働協約」を眺めながら、ただそういっただけだった。そして庶務の藤田浩二が見つけ出したそれを、もう自分のモノであるかのように小さく丸めた。