『第2会議室にて』24
2008年7月17日⑤
福田和彦が席に戻ってしばらくすると、向井良行が取材から帰ってきた。向井は福田の隣の部署で、主に高級輸入車を扱う雑誌を編集している。
聞けば、朝5時から内房で撮影してきたという。陽射しが強かったらしく、顔や腕がすでに赤くなっている。もうすぐお昼だが、その雑誌の編集部は彼以外、誰も戻ってはいない。
「中西さんが質問状を手渡したってさ」
福田は、お疲れさんという代わりにそのことを伝えた。
「そうか。いよいよ、ってことだね。さて、どう出るのか・・・」
向井は小さなタオルで汗を拭きながらいった。
「あまり大したことは質問していないから、今回は向こうも楽だと思うよ」
「前にいっていたように、質問状というよりも挨拶状だね」
「労働協約の点は難しい判断をすると思うけれど、たぶん本音をオブラートに包んで、意味不明になったものしか出てこないだろう。もし本音そのものが出てくると、それなりにこちらは慌ただしくなる」
「そういうことか。しかし自分にとって大事なのは仕事がどうなるか、だね。今日、ずっと車を運転しながら考えてみたんだけど、自分はこれしかできないというか、これからもこれをやっていきたいと思っている、それだけは確かなんだ」
向井の顔がいつになく真剣だと、福田は感じた。そしてここしばらくは気にもしなかったが、彼が契約社員だったことを思い出した。正社員と契約社員の違いは、退職金があるかないかだけだと、会社側は以前から説明されていた。そしてそれをみんなも信じてきた。契約社員は基本的にはその部署のニーズによって雇用されていたが、異動がまったくないわけではない。ただ正社員に比べると、同じ部署に居続ける割合が高い。しかしある雑誌が休刊になったとしても、契約が解除されたことはなく、別の部署に移るだけだった。少なくとも、いままでは。
「そうだね。とにかくいまの会社は不安な噂ばかりだから、落ち着いて仕事ができなくなっている」
向井はまだ汗を拭いているけれど、小さなタオルでは拭き切れない。そしてタオルを持ったまま、どこかに電話をするという。
「実は今日、あるライターがクルマ擦っちゃってね。ほとんどキズは見えないんだけど、広報車が返却される前に、一言いっておかなくてはいけないから・・・」
トラブルなのに彼の顔は少し楽しそうだった。
福田と向井の話を聞いていたのか、メカニズム専門誌編集長の須々木一樹が近づいてきた。彼は管理職なので組合には加盟できないけれど、普段から組合の活動には関心を持ってくれていた。
「ねえ、質問状を出したって聞いたんだけど・・・」
それに福田が答える。
「質問といっても、お伺いって程度のものだけど・・・」
須々木の目がちょっと光る。
「いゃ、それでも画期的だと思うよ。ここ数年、組合活動らしいことなんて、ぜんぜん無かったじゃない」
確かにその通りだ。年俸を提示されても、そのまま提示されっぱなしだし、就業規則が部分改定されても、それを是認するだけだった。須々木の言葉は福田に痛い。今月になって執行部に入ったばかりだとしても、だ。
「そう、確かに何もしてこなかったね。でもこの雰囲気はおかしいと思った。だから質問をしてみることにしたんだ」
「で、どんなことを聞いたの・・・」
「合併後に関しての具体的な方向性と労働協約の確認、それから業界紙での社長の発言・・ってとこかな」
「ああ、あの何誌か休刊させるっていうヤツだね」
「そう、そいつ」
須々木は腕組みをした。その質問内容を吟味しているようだ。
「確かに様子見といったところかな」
これが彼の吟味結果か。
「少なくとも全面対決には、まだならないと思う」
福田も自分の意見をいった。
「対決しようにも、その要素がないからね」
そう須々木のいうのはわかる。対決要素を会社はひた隠しにしている。そしてじっと時間が過ぎていくのを待っている。
「その要素っていうやつを、早めにほじくり出さなくてはいけないね」
須々木の言葉がまた痛い。福田はその要素っていうヤツがちょっと怖いのだ。
「そうだね。そのとおりだ」
福田は溜息混じりに答えた。
「で、返答日はいつなの・・・」
「7月の21日になっている」
「今週末か・・・」
「その日にちゃんと返ってくるかはわからないけれどね」
「とにかくその内容を教えてほしいな。これは組合だけでなく、全社的な問題なんだから・・・」
「もちろん、個人的には壁に張り出してもいいと思っている」
「うん、よろしく頼むよ。楽しみにしている」
福田にとってもそれは、すこし前まで楽しみだった。でも今はどうだろう。何かとてもいやなもの、それがゆっくりと近づいてくる、そんな気分になってきた。あーあ、やっぱり副委員長など引き受けなければよかったのかなぁ。