「おいしい」記憶はそのままの方が「おいしい」

 先日、買い物を頼まれてレジに並んだとき、ふと目の前に板チョコレートがあることに気がついた。そして微かな迷いのあとに、その一枚をカゴに入れていた。さてチョコレートを買ったのはいったい何年ぶりだろう。
 こどもの頃は、大人になったら大好きな食べ物を、おなか一杯食べることができると思っていた。バナナパフェやイチゴケーキ、そしてチョコレートなどなど、自分の小遣いでは決して買うことのできない羨望の品々も、大人になってお金を稼ぐようになれば、自分の思いのままに味わうことができる、そう思いつつその日が来るのをじっと待っていた。
 しかしいざ大人になってみると、そういった輝けるモノたちの魅力が途端に色あせてしまう。これはとても不思議なことだ。
 思い出グッズのような気分で買ったのは、オーソドックスな明治の板チョコだけれど、LOOKチョコやベビーチョコ、チョコボールなどの記憶までもが甦る。
 で、食べてみる。たしかにおいしいのだが、とろけてしまうようなかつての味わいは、当然のことながらなかった。もしかすると、他のさまざまな思い出と同様に、味の記憶も、記憶のままで残しておいた方が「おいしい」のかもしれない。