クルマに関するエトセトラ01

oshikun2010-05-25

 未来でなくなったクラウン
 6年ほど前に、今のクルマに買い換えた。2002年の春である。それまでは1986年のクリスマスから、なんと足掛け17年もクイント・インテグラに乗り続けていた。まあ、そのインテグラについては別に話す機会もあるだろう。とりあえずは「今のクルマ」である。
 クルマはかつて、その持ち主を象徴する存在としてあり続けた。そして薄れたとはいえ、まだその役割が完全に終わったわけではない。
 とある夫がゴルフに行くためにクルマが欲しいと妻にいったところ、彼女から自分の軽自動車を貸すといわれて、「軽なんかでゴルフに行けるか!!!」と激怒した話を実際に聞いている。
 と、なにやら卑近な話題となってしまったが、とにかく、その人の「今のクルマ」は、ある程度ではあるが、まだ綿々とその人を表徴する存在であり続けている。
 逆に変わったのは、その象徴していることを前提としていながら、象徴されることに対する考えたの方ではないか。
 それはクルマの格の順列が歴然とありながらも、そのユーザーたちはそれを価値判断の基準とはしなくなったことであり、あるいは購入動機がそれに左右されなくなってきた、といいかえてもいい。
 もちろんこれは新しくもなんともないことだ。ハリウッド俳優が高級車ではなく、ハイブリッド車に乗っているというクルマのCMがあること自体、その価値観のループは一回りして、パロディとしても利用可能となってしまっているともいえるだろう。
 そしてもちろん、「いつかはクラウン」という広告コピーは、明確に陳腐化しているのだ。
 しかしそもそも資本主義的大量生産形態の消費財として、唯一の、そして最大の趣向品である自動車のアイデンティティは、これで崩れたのだろうか。この命題についてはこのブログの最初の方でもチラリと触れたことがある。
 ということで、これから始まるこのカテゴリーは自分のクルマ体験などを通して、その不思議な大量生産消費財=クルマについてのエトセトラを、綴っていくことにする。
ホントはもっとたくさん書きたいのだけれど、まとまりがなくてゴメン。今日はなぜかとても眠いのだ。