『第2会議室にて』27

oshikun2010-05-31

 2008年7月21日①
 組合執行部委員長の中西信也は、午前中からずっと石原信二取締役の様子を窺っていた。今日は組合の質問状への回答の期限だった。しかし彼はいつものように、そしてそれがまるで仕事でもあるかのように、ネットサーフィンをしているだけだった。彼にとって幸いなのは、彼の後ろを人が通ることがあまりなく、それ以上に彼に書類を届ける人もいないことだった。キーボードを使うのは、きっと検索ワードを入れるときぐらいだろう。
 午後の3時を過ぎたあたりで、中西は痺れを切らした。そして立ち上がると、石原に近づいていった。彼は少し驚いたようで、見ていた画面を閉じるのも忘れている。そこには若い女の子が微笑んでいる。石原はアイドルのブログを研究中だ。
 単刀直入に中西はいった。
 「今日が質問状への回答日の期日なんですが、いかがですか」
 石原は意味もなく机の上の書類を確認している。中西と目を合わせようとはしない。
 「う、うん、わかっている。社長にね、原案を提出済みで、チェック待ちの状態なんだ」
 「それでは今日いただけますね」
 イタズラ心を抱いた中西は、宙を舞う石原の視線の中に自分を移動させようとした。その気配を感じたのか、石原の眼が不自然に動く。こういった人だったのか、石原さんは。中西はその時、彼に哀れささえ感じた。
 「大丈夫だと、思う」
 「それではお願いします」
 中西は自分の席に戻って仕事を続けた。今日は自分の担当媒体での大きなトラブルはなかった。取り次ぎに提示した納品部数についての、やんわりとしたクレームが一本だけだ。
 しかし中西といっしょの「島」のカーライフ出版の制作進行役には、問題が出ているようだった。ファッション誌の表紙の法定文字がよく読めないと、取次ぎからクレームが来ているようなのだ。取次ぎまで「本」が行ってしまっては、該当箇所のシール貼りで対処することもできない。まずは各書店に対するお詫びと、善後策についての書類を作成しなくてはならないはずだ。中西は頭の中で、いくつか事前に用意されている文例の中で、何が一番ふさわしいかを選んでいた。でも今回は自分の出番ではない。
 このトラブルの責任は版元にあると考えられるが、カーライフ出版の担当者は悠長に構えている。それが中西にはとても不思議だった。
 その雑誌の表紙は中西も見たことがある。タイトル文字がモデルの顔で消されていることがよくあった。有名な雑誌ならそれも許されるだろうが、その媒体は書店員でも、雑誌の担当でなければ知らなくても恥じ入る必要のない程度のモノだった。
 その箇所は校正時にはちゃんとした表示されていたはずなので、たぶん最後に印刷会社に戻す時に編集部の独断で直しを入れたのだろう。カーライフ出版だけとは限らないが、編集者には、芸術作品を作っていると思っているヤツがいる。
 印刷会社から最終の校正紙と刷り出しが出てきた。便の都合から印刷された「本」よりあとに刷り出しが届くことがあるが、今回は特別便なのだろう。それを担当者が広げているので、中西も見にいった。真ん中にいつものように女性モデルが立っていて、不機嫌そうにカメラを睨んでいる。彼女が写っているのは胸から上だ。そしてまたいつもと同様に彼女のヘアスタイルに合わせて、雑誌のロゴが削られている。バックはベージュのブロック状の壁だったが、問題になった法定数字が記載されている場所は、最初ベージュの壁のままだったのが、校了紙では彼女の髪の色に合わせてスミアミが被せられていた。彼女の白っぽい顔をさらに目立たせるためなのだろう。これでは級数の小さい黒ベタ文字は消えてしまう。
 しかしその校了紙を見ながら、雑誌の制作進行担当者は笑っていた。そして電話を取った。連絡先は社内らしい。
 「次号のことだけど、表紙でちょっと問題が起きてね。最終的に編集部でアカ入れただろ。それで文字が潰れちゃってさ。第一日本印刷さんも、プロなんだから気づいてくれればいいのにね。そう、もう取り次ぎにいっていて、そこからのクレームなんだ。印刷会社にはよくいっておくけど、そちらでも気をつけてくれないと・・・そ、そういうことだから、よろしくね」
こういった人材と半年後にはいっしょに仕事をするのだ、そう思って中西は暗澹たる気持ちになった。
 そして午後5時を過ぎた。質問状への回答はまだない。中西は首を伸ばして石原の席を確認した。彼はまだ席にいて、パソコンではなく、机の上で何かに見入っている。中西はまた彼のところまで行ってみることにした。
 中西がかなりそばに近づくまで、石原は彼に気づかない。彼の存在がわかると、一瞬だけ身体をビクつかせた。手元にはプチプチがある。今までそれをつぶしていたのだろう。
 「いゃ、いったん始めると停まらなくなってね」
 彼は聞いてもいない質問には答えた。
 「もう5時を過ぎました。回答の方はいただけるのでしょうか」
 「あっそうか。いや、ごめん、ごめん。社長が帰ってくるはずだったんだけど、急に直帰になっちゃってさ。私も困っているところなんだ。約束してたんだけどね。回答書はできてはいるんだよ。でも社長の確認を取らなくてはいけないだろ・・・」
 中西は社長のチェックのない回答書は、回答書ではなくただの紙切れだと思ったが、そうは口にしなかった。
 「それではいついただけるんですか」
 「そうだね。社長次第だけど、週明けの月曜午後には大丈夫だと思う。24日だね」
 「ほんとうは今日が期限で、それを石原さんも確認していますよね」
 「私はわかっているよ。でも社長がね。ああいう人だから・・・」
 石原の言葉が少しきつくなった。それは中西に対してなのか、それとも東山社長に対してなのかはわからなかった。