『第2会議室にて』38

oshikun2010-07-08

 2008年7月31日⑤
 太田章は発言を続けた。彼の実質的な上司である小杉裕子が隣で笑っている。
 「だって給料は会社が決めるし、自分の場合ほとんど変わらないか、実際には少し下がってもいるんですよ。それに仕事が終わったから帰ろうとすると、いつもどこからともなく別の仕事が現れたりして、結局のところ、いつ帰れるかわからない。でも他の会社に転職できるわけでもないし、辞めたら、早速明日からのご飯に困ってしまうじゃないですか」
 太田は場の空気を少し下の方に引き戻してくれる。ありがたいことだ。それに福田和彦が答えた。
 「確かに会社を辞めたら、明日からのオマンマの喰い上げだね。これはあの当時もそして今もほとんど変わることはない。自分たちにできるのは、ただ自分の労働力を売ることだけだから。博物館に入っている言葉なら、これを『無産階級』という。土地や資本といった、そのままで増殖していく資産を持っていない階級、ただ雇われて働く以外に能のない人々、つまり私たちの基本的なあり方は、何ら変わっていないといってもいいだろう。でもね、その周辺がちょっと変わっているんだよ」
 彼はここで一息だけ間を空けた。
 「例えば、いまここに私たちが集まっていること、緊張感もなく、ただ時間が過ぎていくこの第2会議室の集まりですら、今までの歴史の積み重ねで、どうにか可能になったことなんだ。もしこれが戦前だったら、私たちは治安維持法で検挙されるかもしれない・・・・・」
 そして彼はレジュメを目の前でヒラヒラとさせた。
 「あるいは、この一枚の紙を小型タイムマシンに乗せて、戦前の誰かの手元に送ってみたとしよう。そしてその誰かを警察に通報すれば、確実に彼は捕まる。ただし警察はこの紙の多くの部分に首を傾げるけれどね。しかし今、私たちは捕まらない・・・」
 「それがこれに書いてある憲法や労働法ってことに関わるわけね」
 小杉裕子は社会の授業をまじめに受けたタイプだろう。
 「歴史は私たちに貴重なプレゼントを与えてくれた。それは歴史というよりも諸先輩方といった方がいいかな。こんなこというのは恥ずかしいけれど、憲法や労働法の条文は、まさに彼らの流した血によって書かれたわけだ。そしてとりわけ私たち労働組合に重要なのが、労働組合法ということになるだろう。もちろん憲法労働基準法も大事なんだけどね」
 「ここに書いてある労働関係調整法ってのはどうなの・・・」
 2輪雑誌編集部の若い男がレジュメを見ながらそういった。福田は彼の名を知らない。
 「その法律の名前の通りに、それは労働者の権利を守るというよりは争議の調整や公務員の争議権の制限に関する法律なんだ。労働争議の解決のために、労働委員会の規定なども定めているけれどもね」
 「その労働組合法っていうのはどうして大事なんですか」
 今度は経理部に所属する女性の発言だ。彼女の名前も福田は失念していた。でもいつも太田の近くで仕事をしているはずだ。彼のオルガナイザーとしての才能は褒めてあげたい。
 「この法律には、労働組合にはどんな権利があるのかが具体的に示されているからなんだ。戦前も確かに労働組合が存在していたけど、それはかなり軟弱な基盤の上だったし、治安維持法や治安警察法などで簡単に弾圧することができたんだ。その点、この労働組合法の制定によって、労働組合は法的にも守られる公的な存在になったってわけさ」
 「へぇ、そうなんだ。オレはてっきり組合っていうのは、任意団体か親睦団体か何かだと思ってた」
 今日ひとりだけ参加した広告部の男がそういった。組合員の多くもそう感じているらしい。福田は複雑な思いに駆られた。他の執行部員もそれは同様だったようだ。唯一、太田を除いては。