志は北辰の彼方へ

oshikun2010-10-17

 13日の夕刻は六本木、その場所にそぐわないなぁ、と思っている中年男女の気持ちを読み取るように、目指す俳優座劇場は地下鉄出口6番のすぐ目の前。
「あはは、六本木に来たのに、歩くのは数メートルだね」なんていいながら、定刻よりも早く二人はロビーへ。
 するととたんにツレは佐々木譲さんを発見。彼女は街中でも著名人を見つけるのが早いのだ。つまりはたんなるミーハーなのである。
 幸いなことに譲さんは一人でいらっしゃったので、一読者として声を掛けさせていただく。いつものちょっと首を左右に振るような仕草、そして微笑み。原作者としての大きな喜びとちょっとした緊張が感じられた。
 そう今日は譲さんの小説をベースにした演劇『婢伝五稜郭』の初日なのだ。
 受付が始まり、ネット予約したチケットを購入。ええっ2列9番と10番ってどんな席かなと場内へいくと、1列目というシートがないので、かぶりつきのほぼ中央。これから私たちはほぼ3時間、キャストと同じ空気を吸うことになるのだ。

 そして江刺追分が背後から聞こえてきて、いよいよ幕が開く。
 函館戦争の後日談と聞いていたので、榎本武揚は出てこないものと思っていたが、これは嬉しい誤解だった。神太郎さんの凛々しき榎本の存在は、劇全体の指針となっている。彼との距離感がまたひとつのテーマでもあるようだ。
 そうそう、劇の冒頭に旅芸人座長の口上があった。旅芸人といえば誰でも思い出すのが、テオ・アンゲロプロスの映画『旅芸人の記録』である。この映画は一座が歴史に関わりつつ、また目撃しつつギリシャ近現代史を描いている。そういった点で、この劇も同様の仕組みになっているといえるのかもしれない。
 そして舞台は唐突に1977年。ベールをかぶった「老婆」が現れる。驚愕すべきはそのベールの隅から覗いた彼女の手。まさに老婆の如くに震えている。その震え方がほんとうにリアルなのだ。顔は見えなかったが、これが樋口泰子さん演じる「手」ならば、お見事である。
 さらにその手の演技は続く。彼女が座り込んで、着物を繕うシーン。糸や針は使っていないのに、糸や針によって着物が引っ張られるように動く。私は手元を凝視してしまった。しかしやはり糸や針はないのだ。彼女の細部に宿るその演技に感嘆。かぶりつきゆえの御利益である。

 物語は『婢伝五稜郭』を中心に進行するようだが、私はまだ一回目の連載しか読んでいないので、そのあとの展開が小説とどう絡み合っているのかがわからない。しかし、とにかくいえるのはひとりの「従軍看護婦」の函館戦争後の物語であるだけでなく、江戸時代からのアイヌへの圧制の歴史や、京都政府軍の暴虐のありよう、そして「資本システム」の流入による既存共同体の破壊を描きつつ、「志」への信念と迷いが重要なテーマとなっている。
 その「志」の牽引役となるのが、さっき書いたように随所に登場する榎本武揚である。神太郎さん演じる武揚は、威厳があり、なかなかのものだが、当時の本人と同様にもう少し若い俳優さんが演じるとまた違った味わいが出たかもしれない。
 この「志」の傍観者となるのが、旅芸人の一行である。これもまたなかなかのキャラクター揃いで、それはまた「傍観者」として観客も同じだろう。
 幕末、すでに刀の時代は終わっている。外部の情報を遮断し、武士道という「共同幻想」の最後のあだ花が尊皇攘夷という「掛け声」であったことは、劇中にもコミカルに表現されている。
最たる例はモロコシの酒やコーヒー、「最初は苦いが、じきに慣れるとなかないいいもんだ・・」うんぬんはまさにかなりのブラックである。
 だから戦闘シーンとしての立ち合いは、劇としてのエンターティメントであり、またその時代の「キャスト」の失われつつあるアイデンティティでもある。事実、ヒロインは職業上の道具であるメスを武器として用い、さらにピストルを自らの武器に選ぶ。
 でもそんなゴタクを抜きにしていえば、この立ち合いシーンはおおいに楽しめた。かぶりつきゆえ、ステージからはみ出しそうになる刀の先に首をすくめること、多であったのだ。
 さて、この「武士道」の空気を吸いつつ、榎本の「志」に感化されたふたりの男、兵頭と矢島の迷いはオーソドックスでありながらも、深い。しかしさらに魅力的な存在なのは、幕府に藩として仕え、また京都政府軍に藩として従う竹富の存在である。兵頭と矢島の演技が情熱そのものであるのに対して、竹富は終止周囲を冷静に観ている。
 榎本と澤太郎左衛門との牢獄でのやりとり、榎本が父親の地球儀を大事にする様など「志」の軸が笑いに包まれているのもいい。
 最後にアイヌたちによって何かが引き揚げられる。実際に1977年を前後して海底遺構の調査が行なわれて、数多くの開陽丸の物品が引き揚げられた。だからそれは当然、江刺沖に沈没した開陽丸であるには違いない。しかし劇中に引き揚げられたそれは、いままでそのステージで繰り広げられた物語であるはずである。史実よりも、物語が人々にとってより事実であるというテーマがそこに現れるのだ。
 まだ書き残していることが多いと思うけど、今日はここまででアップ。
 それはそうと、ツレは劇場を出るなり、榎本さんってどこの藩の人なのだって、おいおい。

 本日楽日、六本木6番出口へ急げ。