不必要の必要 その十二

 まあ高校生の天体観測なんていうのは、遊びみたいというか、自分の場合はまったくの遊びだったので、学術的な意味合いはまったくないのだけれど、それでも10センチの反赤(反射赤道儀式望遠鏡の意)を夜な夜なキムヨナ木星に向けては、そのシマシマ模様をお手製のスケッチ用紙(ケント紙にただ円を書いたもの)に描いていったのだった。
 地上での天体観測はどんな望遠鏡でも大気の揺れに影響される。また詳しい書くと長くなるが、その揺れによって恒星はまたたくわけだ。そして惑星があまりまたたかない。なぜなら、それらはともに点に見えるが、恒星が究極的に点であるに対して惑星はどうにかそうにか面として天球に存在しているからなのだ。しかしそんなことをしゃべっていると、いつまでも終わらないので、このへんで。
 さて、そんな大気の揺れに抗しつつ、少年は木星の模様を凝視する。赤いまなざしを向ける大赤斑の位置や縞の本数と太さと乱れ、そしてガリレオ衛星の場所、などなどを鉛筆で描いていく。
 その際に迷うのはぼんやりとして、あるかなきかのそれを、どこまで細かく白い紙に描き込むかということ。望遠鏡の中で揺らぐ不鮮明な微かな模様は、白いスケッチに描きさえすれば存在することになる。しかし実際の木星の像の一部は消えたり現れたり、そして消えたりしている。はたして、そのあいまいさを是認していいのだろうか。
 いいよ、となれば白い紙に何らかがカタチが現れる。だめだよ、とすれば何も描かれず、紙は白いままだ。ただ悲しいかな、お遊びといえども観測は何かの結果を残すために行われる。私が白い紙の描いた六本の縞はほんとうは五本だったかもしれない。その縞の途切れた箇所はほんとうはつながっていたのかもしれない。
 天体観測はプールの底から風景を観るようなものといわれることがある。それほどまでに大気は像をかく乱する。もしプールの底を覗きこむ人がいて、その人の顔をはたしてプールの底の住人は判別できるだろうか。そして判別できるとすればそれはどの程度までより分けることが可能なのか。
 往年の火星観測者は、あいまいさの多くを是認して、その多くがプールの底からありもしない火星の「運河」を目撃することとなった。彼らには実際そう観えたのだろう。彼らの環境がそれを支えていたのだし、時の一般的に宇宙モノの解説書はそれを当然としたからだ。
 繰り返すが火星の姿は望遠鏡だけでは描かれなかったのである。