「佐藤泰志−死から回生への物語」について その二

 その一を書いてから、はや二か月以上。続くとしておきながら、なんともみっともない状態をさらしてしまいました。


 さて、佐藤泰志が最後に完成させた小説が「虹」であり、構想を完結できなかったのが連作小説『海炭市叙景』でした。しかしそれぞれ自ら選んだその死の間際まで書き込んでいるはずなのに、切迫感といったものはまったくありません。であれば逆に諦観がこどきものはどうなのかとなりますが、私の鈍さゆえなのか、そのようなものもないのです。
 しかしこの二作、明らかに他の作品たちとは全く違った趣きがあることも事実かと思います。それは例えば臭いのなさなのか、あるいは情念の薄さなのか、もしくは躍動感と乏しさなのか、そういった類なのですが、そう書いてしまうと何かやこの二作が駄作であると思われるかもしれませんが、まったくそうではないのです。
 いわば、そこには身体にこびり付いた様々な端切れや汚れや、あるいは熱や疑念のようなものをスルリと落として、生のままの何かを描いている潔さがあるように感じるのです。
 これは作者が死を前にしたがゆえに到達した境地なのか、それともそれとは関連がなく創作者としての歩みの一つだったのかは、ほんとうのところわからないのですが、北海道新聞の私の拙文では、限りなく前者ではないか、と書いていることは読んだ方にはご理解いただけると思います。(続く)

「佐藤泰志−死から回生への物語」について その一

 本日、28日の北海道新聞夕刊に、連載企画「現代北海道文学」の第七回として、「佐藤泰志−死から回生への物語」を書かせていただきました。
 佐藤泰志は1990年の十月、ちょうど今から四半世紀前に、自死した純文学作家ですが、死後しばらく発行された単行本は品切れで、新しい読者を得ることができない状態でした。
 しかし、2007年に東京の小さな出版社クレインが、彼の作品集を刊行した頃から、静かにしかし確実に風が吹き始め、彼の作品に対する再評価の波が作られていきました。
 彼の故郷である函館市民によって行われて『海炭市叙景』の映画化運動も、その一つです。現在、単行本のすべてが文庫化され、またそれに収録されなかった作品を集めた書籍など、数多くの佐藤泰志関連本が発行されています。
 また『そこのみにて光り輝く』も映画化され、来年には『オーバー・フェンス』の公開が予定されていると聞きます。
 そんな中、私のようなものが……、といささか申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが、何度か『海炭市叙景』を読み返すなかで、その18篇の小さな物語の中にいくすじかの、まるで流星のように交差しあうモノがあると思えるようになったのです。そこで今回は、その光の流れのすじと、書く手の視点の位置について、拙い筆ながら、紙面を汚させていただくことになりました。(続く)