宇宙開発と競争した映画

 前日の書き込みにある宇宙開発と競争した映画というのは、『2001年宇宙の旅』のことです。
 監督のスタンリー・キューブリックは、「今までとはまったくタイプの違うSFを作りたいんだけど、知恵を貸してくれるかな」とSF作家のアーサー・C・クラークに提案したのが1964年でした。
 この年は一人乗りのマーキュリー計画から二人乗りのジェミニ計画への橋渡しの年で、もちろんまだ月までの飛行に必要なジェミニでのランデブーやドッキングなどの実験は行なわれていません。人類を月に運ぶサターンロケットも、原型タイプのⅠ型を打ち上げたばかりで、ケネディのあの演説があったとはいえ、月着陸は計画というよりも夢想の時代だったといえるでしょう。
 でも映画制作のスケジュールがどんどん遅れていくのに、宇宙開発の方は急ピッチで進んでいきました。宇宙飛行士が3人死亡するアポロ1号の悲劇も、それをバネにしてしまうほどの勢いです。そしてそれはミサイルではなく純粋に月着陸のためのサターンⅤ型が完成し、何度かの実験的な打ち上げで一層強まっていきました。
 で、キューブリックは焦るのです。ちゃんとした映画は作りたい。でも先に人に月に行ってしまっては、自分の作品が紙芝居になってしまうのではないか、というわけです。
 そしてアームストロングが月に最初の一歩を印す1年と少し前の1968年春、『2001年宇宙の旅』は、どうにか公開にこぎ着けました。作品は現実より前に「月」に到達することができたのです。
 その時点で人類はまだ地球周回軌道しか体験していませんでしたが、その年の12月には、アポロ8号の月周回飛行が成功し、月面を前景にして漆黒の宇宙に浮かぶ青い地球の姿を人類は初めて見ています。そしていよいよ翌1969年7月には、人類はアポロ11号の月からの生放送を体験するのです。
 もし『2001年宇宙の旅』の公開がそれ以後だったとすると、こんな現実を前にして映画がどんなに精緻に作られていたとしても、作り物感は否めなかったでしょう。
 刷り込み理論ではありませんが、私たちは月着陸よりも前に映画『2001年宇宙の旅』を体験しました。もちろん多くの人は1969年以降にこの映画を観ています。でも人類としての体験の時系列は貴重であり、それがこの映画の「宇宙開発競争に於ける勝利」を意味しているのだと思います。
 このようにアポロ11号以後の『2001年宇宙の旅』がありえなかったもう一つの理由が、映画のプロモーションの立場にもあったはずです。
 公開当時『2001年宇宙の旅』は、その内容とはまったく別の宇宙開発叙事詩的な映画として、マスコミにより喧伝されました。それはその題名からもうかがうことができます。つまりアポロ計画の月着陸直前の熱狂と、『2001年宇宙の旅』は相乗効果を働かせることによって、20世紀後半の虚と実のエポックとなったといえるようです。
ただし、公開当時は過度なプロモーションにも関わらず、膨大な制作費をMGMは回収できませんでした。『2001宇宙の旅』にその価値が付与されるのは、少し時間がかかるのです。
 そして40年が過ぎ、キューブリックもクラークもこの世の人ではありませんが、映画『2001年宇宙の旅』は、「アポロ計画」と同様に永遠の生を享受しているように思えるのです。
 
★以上の文は、『2001年宇宙の旅』について、1950年の『前哨』あたりから分析を進めた長文の一部を再構成したものです。かなり稚拙な点、ご容赦を。写真は夜景に浮かぶ月。あいかわらずコンパクトカメラでは小さくしか写りません。