柴又、記憶のうちに 1

oshikun2009-11-09

 駅前の小さな変貌 
 11月6日に柴又に行ってみた。
 この町には1965(昭和40)年から68年暮れまで約4年間暮らしたことがある。年齢でいうと9歳から12歳、学年だと小学2年生の終わりから6年生の2学期後半までだ。もう40年以上前のことになる。この町にはその後も何回か出掛けた。最近では2002年の3月だったが、その時に思ったのはこの町の変化の少なさだ。都心や郊外が大きくその姿を変えているのに対して、その中間地点にあるといえる柴又は、7年前のその日、自分が過去に戻ったと感じられるほど変わっていなかった。もちろん住む人を含めて実際にはその多くが変わっていることだろう。しかしそこに暮らしたことのある者がフラリとやってきた時に、優しく迎えてくれる風景はほぼそのままだったのだ。
 でも2009年11月がすぐに過去になってしまうように、その2002年3月も過去になって久しい。今回また訪れてみて、7年前にはあったもののあらかたがすでに消えていた。
 私にとっての柴又は、もう記憶のうちにあるだけなのかもしれない。そんな気持ちが、すぐに過去となってしまうこの日に撮影した写真に、その場所にまつわる一文を付した記憶の断片として残す試みをさせることになった。

 柴又駅自体は、40年前とほとんど変わっていない。しかし改札を出ると記憶にある店はほぼシャッターを閉じていた。右の煎餅屋も、長く店を開けてはいないようだ。この中には見るたけでも楽しい小型ジェットコースターのような自動煎餅焼き機があったのだが、もう動くことはないのだろうか。
 左の写真屋も閉まっている。7年前はここでインスタントカメラを買った。店の親父さんからは40年以上ここで店をやっていると聞いたのだが。ここでネオパンとかSSSとか、フィルムの種類や感度を知った。写真といえばまだ白黒の時代である。
 ここに住んでいた頃は、映画「寅さんシリーズ」が始まってはおらず、まだ誰も柴又のことを知らなかった。その寅さんのモニュメントが、かつての広告塔のあたりに建っている。
 母の夕方の買い物に付き合いつつ、よく駅前で父の帰りを待った。父は柴又から3つ目の青砥の工場に勤めていて、この出迎えにはときどき余祿がある。写真屋と並ぶ店でソフトクリームを買ってもらい、コーンの先までクリームを押して食べるか、あるいは反対側の菓子屋でお菓子を買う。そこで買ったオバQのチョコレートにはソノシートが付いていた。
 柴又から次の駅で終点でもある金町までは線路は単線である。つまり下りが出るとそれが帰ってくるまで上りはない。それは今も同じだ。その昔、柴又から金町まで人力で走る一輌だけの鉄道があったという。その線路際に立って、人が後にぶら下って足で蹴って走ったというその車輛を想像してみる。★白い煎餅の生地がジェットコースターのコースのような機械に順に送られて、タレが付けられゆっくりと焼かれていくのをこの店先で見ることができた。もうかなり長い時間シャッターが下りたままのようだった。
★まんなかの写真屋さんにはたぶいお世話になった。アイスクリームを買ったのはこの右端の店だった。
★改札口の方向から駅前広場を見る。寅さんの銅像やモニュメントがある場所に、商店の名前などが書かれた広告塔が建っていた。その下には小さなドアが付いていて、入ってみたくてしょうがなかった。
柴又駅方向から金町駅方向の線路を見る。踏み切りのあたりで単線になっているのがわかる。