とぼとぼ映画雑言ロード 09

地下室のメロディー
 ジャン・ギャバンアラン・ドロンが共演した銀行破りの定番映画。エアコンの通気口という手段を最初に使ったのはこれではないだろうか。まずタイトルバックがスタイリッシュ。かつての雰囲気がまったくなくなり近代的なビルが林立する場所に、一人立つジャン・ギャバンがいい。そしてラストシーンの緊張感がやがて弛緩しいく雰囲気がまたいい。その画面の構成もいい。さて今日日の若者にとってカッコイイのは、ドロンだろうかギャバンだろうか。
『危険がいっぱい』
 いくら『太陽がいっぱい』がヒットしたからってこのタイトルはないでしょう。アラン・ドロンジェーン・フォンダの共演。状況がよくわからないまま物語は進むが、後半になって観客にはその謎が次々と明らかになるが、その謎さえもある目的に一部となる。ああコワイコワイ。
『プレイタイム』
 やはりこれは失敗作なのだろう。ジャック・タチのファンとしては残念だが、もっと短く、もっと低予算でこれを撮っていれば、その後のタチも明るかったに違いないのだけれど、完全主義者の彼はその道を取れなかったということだ。完全主義はえてして完全な制作リストを作りはしない。しかしそれでもそのセンスとユーモアに溢れたこのフィルムが永遠である。
『ナポレオン1.2』
 散逸していたサイレント映画をコッポラたちの手によって復元された映画。ナポレオンの幼年時代からイタリア遠征までを描く。緩慢な動き、捉えどころの無い表情、唐突な展開、でありながらこの全編には見せ場がいっぱいで、飽きさせることはない。これからナポレオンといったら、この白塗りの顔をイメージしてしまいそうである。
ブルース・オールマイティ
 結局、ジム・キャリーならではの映画になっている。こういうふうに俳優と映画のテイストがいっしょになってしまっていることは、はたして俳優にとって幸せなのだろうか。もちろんそれはトム・ハンクスにも、ブルース・ウイルスにしても、またケビン・コスナーにもいえることなのだけど。
オスカーとルシンダ
 宣教師のオスカーとガラス工場主のルシンダが、賭け好きとして船中で意気投合し、やがて愛の行為としてガラス製の礼拝堂をオスカーが僻地へ届けようとする物語なのだが、映画だとちょっと無理がある。賭けの魅力がよくわからないし、オスカーが最後の賭けとしてこの行為を選ぶこと、そもそもガラス製の礼拝堂って大丈夫なのと、いろいろと疑問符が限りなく沸いてきてしまう。たぶん小説の魅力を映像化することが厳しかった作品。ただし文藝作としての雰囲気は十分にある。
パトリオット
 アメリカ独立戦争を描いた作品。メル・ギブソン主演で監督がローランド・エメリッヒだから当然どんどんと人が死んでいきます。しかし独立宣言当時のアメリカってこんな感じだったんだろうなぁ、とちょっと既成概念の変更もさせてくれる。ここで想像するのはベトナム戦争。正規軍のアメリカに対してゲリラ戦を挑んだベトナムが、そのままイギリスとアメリカにチャンジしてしまう。しかしこの映画を観て、イギリスってどんでもない奴だなぁとたぶんみんなが思う。ベトナム戦争アメリカがそうであったように。ちなみにクリス・クーパーがいい感じ。
ファンタスティック・プラネット
 多くの寓意が込められたややグロテスクなヨーロッパアニメ。原題はなんと「野蛮な惑星」とのこと、なるほど。同じ星に住むオム族は人間に似た風体で小さく、その星を支配する巨大で人間型ながら不気味なドラーグ族にペットか害虫のように扱われている。オム族は文明的に進化しているドラーグ族の教育ツールを手に入れることで、彼らに反撃することを覚える。そして戦いが始まるのだが。・・・かなり好き嫌いが分かれる作品。
『赤い風車』
 1952年の作品。ロートレックとその父がともにホセ・フェラーだったことに最後まで気が付かなかった。自分の眼の甘さは棚の上に置いて、そこまで彼が名演であったとしておこう。その才能と知識ゆえに身体の劣等感がもたらす過剰な自意識。しかしその自意識が彼にムーラン・ルージュでの作品を描かせた。つまり皮肉なことにロートレックはその身体をしてロートレックなり得たといえるのかもしれない。古い味わいの色がきれい。
『マーキュリー・ライジング』
 たまにはブルース・ウィルスにピストルを持たない映画に出演させて(まあ出ていないこともないけど)みたらどうだと思ってしまう。それほどまでに警察またはアクション映画のイメージが強く、彼が出てくるともう展開のイメージすら読めた気になってくる。それは観客にとっても、そしてもちろん彼にとっても損なことだろう。さて、映画、ほんとは国家犯罪である事例が結局は一人の軍人の暴走として落ち着いてしまう。FBIも最後は大変ご立派。ということでアレレというエンディングでした。