柴又、記憶のうちに 5

 子どもに客として対応する商店主たち
 当時の小学生の実習に「水鉄砲作り」というのがあった。水鉄砲というと、どんなものを想像するだろうか。ピストルを模したプラスチック製のオモチャか。あるいは機関銃のような形をしていて高い圧力で水が飛び出すやつだろうか。しかしあの頃、水鉄砲といえばやはり竹細工のそれである。竹を節の近くで切ってそこに穴を空けて、そこにやはり細い竹の一方ににきつ布を巻いたものを入れる。いわばピストンの原型である。
 ところが柴又の子どもたちは、まずその素材探しに難儀した。東京の田舎といえども竹藪などはほとんどない。彼らは腕組みをして、小さな頭の中の記憶のストックをスキャンニングする。行動範囲こそ限られてはいるが、記憶は細部にわたって緻密だ。そして頭のランプが点灯する。記憶の中から竹が立てかけられている店がヒットしたのだ。そして何のためらいもなしに、彼らはその店へと向かう。そんな彼らを店の主人はしっかりと応えてくれた。
 商売にはならないが、作業場に子どもたちを招き入れ、少し竹の話しをした後で形のいい竹と、柄の部分になる細い竹を人数分だけ手際よく切ってくれて、それを自慢げに差し出す。子どもたちは大喜びでお礼をいって外に駆け出す。ほら、気をつけろ、と子どもたちの背中に声がかぶさる。その店は今も健在だった。
 一人でガラス屋にいったこともある。押し花のフレームのために、縦20センチ、横10センチ程度のガラス板が欲しかったのだ。自分としてはちゃんとした客のつもりで店に入ると、ガラス屋もそう対応してくれた。ノミのような工具の先には宝石のようなものが付いている。事実それは宝石で、たぶん初めて見るダイヤモンドだった。それを定規にあてガラスを切り出す。その作業に私は見とれた。
 店の主人はそのガラス板を渡したあと、不安な顔になった。それでケガでもしないかと思ったのだろう。そしてガラス板をまた手に取ると紙で何重にも包む。そして、気をつけろよ、とまた同じ声。いくらですか。という問いに、顔が瞬時にまじめになり、そうだな、50円だ、という。ありがとうございました、と外に出た背中に言葉がかぶさる。その店は今回見つからなかった。★40年以上前、このドアの中に水鉄砲のために竹を買いにいった数人の小学生がいたはずだ。