柴又、記憶のうちに10

 カラーテレビの誘惑
 カラーテレビを初めて見たのは、柴又の小さな商店街の電気屋だった。
 ショーウインドウの真ん中に、レコードプレイヤーやトランジスタラジオを家来のようにしてそのカラーテレビは鎮座していた。そのテレビが映るのは夕方の人通りの多い時間帯だけ。そもそも当時はテレビ番組の大半が白黒放送で、新聞のテレビ欄にはカラー放送であることを示すマークが付いていたし、実際の放送でも番組の最初にカラー放送のマークが表示されていた。
 その電気店の店頭はカラーテレビに見とれて、いつも人だかりができていた。でも関心はその内容ではなくて、その美しい色だった。だから時間は長くはない。
 家にカラーテレビがある友だちはいなかった。しかし意外にもアパートの隣人がカラーテレビを入れたのだった。そしてチャンスが訪れた。
 珍しくも両親の帰りが遅い夜があり、小学生の私と妹には、海苔巻き程度の簡単な夕食が用意された。このことを隣のおばさんが聞きつけて、ウチで食べたら、というのである。隣に行けばカラーテレビが見ることができる。今日は「ジャングル大帝」の放送日だ。
 そしてその映像に圧倒された。電気店の画面とはまったく違う世界が、そこには広がっている。あまりに印象的だったので、その家具調のテレビとともに、その上にあったカレンダーなど、テレビを中心に半径30センチのものを鮮明に覚えている。その極彩色に釘付けになりながら、ふたりは海苔巻きを頬張った。
 その夜、母親からえらく叱られた。海苔巻きしか子どもに与えていないと思われる、というのだが、説得力はあまりない。我々はお留守番は見事に「落第」したわけだが、そんなことはどうでもいいくらいにカラーテレビの魅力は絶大だった。自分の家にカラーテレビが入るのは、その2、3年後、草加に引っ越してからである。
 カラーテレビがやってきた日、新聞のテレビ欄でカラー番組を探し出し、それにチャンネルを合わせてずっと画面を見続けた。くだらない番組でも、色さえついていればそれで満足だった。そのときカラー放送でなかったのは、5分ほどの番組がひとつだけとなっていた。
 そしてカラー番組はやがてすべての放送時間を占領し、カラー放送のマークは新聞や画面から消えた。ときたま白黒映画の放送のときだけ、モノクロである旨のテロップが付くようになった。しかし私は今、モノクロ映画こそ美しいと思うようになっていた。★今もその場所に電気店が営業しているが、店構えは新しくなっている。