柴又、記憶のうちに13

 病院の明かりが灯るとき
 そろそろ子どもの寝る時刻、ということは夜の9時頃のことだろう。
 親と何らかの言い争いをして、いやいやながら牛乳瓶を2本、アパートの階段下に降ろしにいった。ちなみにその頃の我が家族は、柴又三丁目のアパートの二階に住んでいた。寅さんの妹さくらの家族が住んでいた場所と同じである。さて、その後の展開は言い争いの天罰にしては、ややハードなものとなる。
 廊下が終わり階段になるという瞬間に、突然、目の前から壁が消えた。そして天井が見えたとたん、身体に鈍い痛みが走る。私は階段の最初の一段目から足を踏み外して、転がるように下に落ちていったのだ。まずいことに、その落下を先導するかのように牛乳瓶も先に転がっていって、下の三和土で砕けて次の転がってくるものを待ち構えていた。
 ほんのしばし、気絶していたのかもしれない。気がついても瞬時には何が起こったのかはわからない。立ち上がり、ふと頭に手を当ててみるとパラパラと髪の毛が落ちてくる。どうして、と思いつつ、その手を見ると、真っ赤な血がぬらりと付いているのが暗がりの中でもわかった。そしてやっと事態を理解したのだった。
 部屋に帰るとすぐの板の間に寝かされ、親がまわりをぱたぱたと動き回っている。痛みは覚えていない。ただ絆創膏ぐらいではすみそうもない。きっと病院に運ばれるんだなぁ、と思っていた。病院といえば、近くの医院しか考えつかない。そこは内科なのに。
 そんな思いを巡らせていると、悠然と父親はトイレに入った。それを変な角度から見送った。息子が頭から血を流しているのに、悠長なものだと思ったが、また安心もした。
 騒ぎを聞きつけた下に住んでいる人が自動車を出してくれて、外科病院に運ばれた。ただ救急病院ではなかったので、対応できるかどうかはわからない。クルマの後部座席に寝かされて、外の風景を見ていた。親が病院のドアホンを押して、中に入る。痛みは感じていない。しかし頭がぼーっとしてきた。その意識のすき間で、今日まで気を失うことを経験してなかったから、それが一体どんなことなのか、などと考えていた。
 やがて病院の玄関が明るくなって、人の影が動く。二階にも電気も灯る。そして私は中に運び込まれた。縫われたのはたったの三針。頭を包帯でぐるぐる巻きにされて家に帰ったが、翌日からは自転車に乗って遊んでいた。
 それよりも子どもにとっては、周辺の髪の毛を剃られたことが大問題だった。前髪をまっすぐに切った坊ちゃん刈りから、少し伸ばして横分け風にするのだが、なんらかの拍子にポロッと地肌が見えてしまう。真剣に部分カツラが欲しいと親に訴えて、笑われ、そして怒られた。★建物は40年前と同じような気がする。新宿は「しんじゅく」ではなく「にいじく」と読む。私たちが引越してきた1965年頃は柴又三丁目も「新宿」という地名だった。