柴又、記憶のうちに17

 缶蹴りと銀玉鉄砲と校舎の模型
 当時の小学校校舎は木造の2階建てだった。ややいびつなL字型で、角の部分は離れている。L字の底の先にはちょっと離れて音楽教室があり、よく児童にいじめられていた先生がそこでオルガンを弾いていた。そこは缶蹴りの集合場所でもあった。そしてそのまったく反対側のL字の頭のあたりに、銀玉戦争の舞台の体育館があった。
 缶蹴りは空き缶がひとつあればできるまさにリーズナブルな遊びだが、場所によってその楽しさはいろいろと変化する。見晴らしがよければ鬼に有利で、缶の近くに植え込みなどの障害物がありばその逆となる。音楽室周辺は校舎の裏や昇降口、そして植木、さらに音楽教室そのものが身を隠す場所となってくれた。隠れる方としてはスリリングだった。鬼になったひとりはずっと「オラは死んじまっただ・・」と歌っていたが、その曲が『帰ってきた酔っぱらい』だと知ったのは数日後のことだった。そしてしばらくして世紀の大ヒット曲となる。
 缶蹴りには、反則技ある。まだ見つかっていない連中と示し合わせて、いっぺんに走り出すと、鬼がみんなの名前をいう前に缶は蹴られてしまうというものだが、誰かひとりがそれをやられて泣いてしまったからは、もう二度とやらなくなった。
 銀玉鉄砲で遊ぶ場所にも条件がある。ちょっと身を隠す場所が必要なのは缶蹴りと同じだが、それよりも大事なのは、地面がコンクリートアスファルトで平面であることだ。なぜなら当時の子どもたちは、銀玉鉄砲で戦争状態にあっても、弾丸がなくなるととたんに休戦となり、それぞれが玉を拾いあうのだから。銀玉は粉のようなものを固めた作られていたので、水には弱いし、濡れていてはピストルに装填できない。だから湿った土の上や探しにくい草の生えた場所ではやらないのだ。最近近くの公園でプラスチックの玉を打ち合って遊んでいる子どもたちを目撃した。その勢いはかなりのもので、皮膚に当たればそれなりに痛いだろう。もちろん彼らは、そのへんに散らばったプラスチックの玉を拾う気なんか全然ないようだった。
 小学5年生の頃だったか、図工室の片隅に校舎の模型を見つけた。何年か、あるいは十何年か前の児童が造っただろうそれは、ほこりをかぶっていて、ところどころ色あせていたが、小学生の手によるものにしてはかなり上手で、少しだけ図工を得意としていた私に対抗心を燃やさせたのだ。そしてもうひとりの友だちといっしょに同じようなものを造ることになった。ベニヤ板をベースに、方眼紙で校舎や体育館を造り、色を塗る。窓をちゃんと切り込んで、内側からセロハンを貼る。校庭は糊を塗った上で砂をまき、リアル感を出す。屋根の一部を取り外して、理科準備室の骸骨標本が見えるようにするなど、アイデアだけは抜群だった。
 しかしいざ作業に入ると「工事」は困難を極めた。イニシャチィブの取り方、センスの微妙な違い、お互いの空き時間の不一致などで、ふたりの間はギクシャクとしてくる。さらにカタチが見えてくるに従って、その出来の悪さから劣等感が膨らんでくるのだった。
 完成したそれは、とても先輩の模型と太刀打ちできるものではない。昔の模型がとにかく長く残されたのに、我々の模型は置き場所もなく、必要もなく、すぐに壊した。
 今の校舎に当時の面影はあまりない。体育館のままだろうか。建物の位置が当時のままなのが、母校の雰囲気を微かに感じさせてくれる。先輩のあの模型はその後、いったいどうなったのだろう。★考えてみれば、銭湯も学校も「北野」だったことになるが、地名で北野というのはあたりには見当たらない。どうしてこの名前が付いたのだろう。