区民講座初体験02

oshikun2009-12-22

 そしてそれは標的となった。
 講座二回目の13日は、「板場区域における旧軍施設と工場の展開」でした。参加者は初日と同じ50人ほどで、ほとんど誰もサボらないっていうのもすごい。
 まずは板橋火薬製造所の建設から口火が切られる(引火に注意)。明治4年9月の「兵部省より金沢県邸上地引き渡しの申し入れ」は、「金沢県邸、つまり加賀藩下屋敷の土地は水車があったりして、火薬工場などを造るのにはとってもいい場所なので兵部省にください。ダメだというのならそれでもいいけれど、そうするともっとたくさんのお金がかかりますよ」というもの(原文漢語調・かなりの口語調意訳)。これが通ったことが板橋区と北区の軍都としてのこれからを決定づけたといえます。
 しかし当時の新聞などによると、周辺に住宅が立て込んできたり(1927年)、実際に爆発事故が起きたり(1937年)、村長が反対運動に立ち上がったり(1928年)と、待ち受けていたのは苦難の道。それでも大正から昭和にかけては周辺に工場が多く建てられるようになり、やがてはそこに勤める人のために、鉄道の延長を行政が国に請願することとなります。そして戦争の時期には大小無数の軍事関連民間工場が造られていきますが、それはそのまま空襲の後期のピンポイント爆撃の標的となるのでした。
 その「成果」は占領軍による戦争直後の空撮写真で明らかになっていて、今ではそれをgooのサイトで見ることができます。講座の参加者からは、このような情報が敵側からしか収集できないのがとても悔しいという話がありました。「何をしたか」の情報はアチラにかなうはずもなく、コチラができるのは「何をされたか」なのでしょう。
 そして三回目の20日はいよいよ史跡を巡る現地見学会。タイトルは「板橋区・北区の軍都を歩く」でした。板橋駅からちょっとだけ道に迷いながらも、集合場所である加賀西公園に着くと、あの圧磨機圧輪記念碑が向かえてくれたではありませんか。★圧磨機圧輪記念碑の記念碑は、当時の部材が使われているという。石神井川の水力でこれを回して、黒色火薬を製造したのだ。タイトル横の写真は米軍のデータ。「URBAN INDUSTRIAL CONCENTRATION」とある。コンセントレーションとは工業の集中なのか、それとも集中攻撃の意味だろうか。