区民講座初体験03

oshikun2009-12-23

 開陽丸の荷物(?)とご対面
 加賀西公園を出発した史跡探訪の一行は、まずは圧磨機圧輪記念碑の前に佇みます。説明によると澤太郎左衛門の欧州留学の際に輸入した部品で作られたとのこと。というと開陽丸で運ばれたのか、それとも後日別による便なのか。そこで『高島秋帆と澤太郎左衛門』(板橋区立郷土資料館)を見ると「(澤は)・・榎本武揚らと共にオランダへ留学、慶応元年(1865年)幕命により火薬製造機器を取り揃えて横浜へ帰着した。蒸気釜、鉄製水車、大理石圧磨等の製造機械一式は、一旦北区滝野川の火薬製造所に設置したものの、江戸幕府の崩壊により中止され、明治政府の預かるところとなった」(46ページ)とのこと。おおっ、どうやらこれは開陽丸によって遠く欧州から運ばれてきたもののようです。ということで、昨日一度アップしたのですが、別アングルのものをまた載せておきます。
 この記念碑や松月院にある高島秋帆の紀功碑は、ともに大正期に起工されているのですが、それが「現物」による碑であるということ、軍隊があまり重視されていなかった時代と重なるということ、そしてその二人が獄につながれたことがあるというのもおもしろい。
 ちなみに上記の資料には滝野川での火薬爆発事故の様子を描いた「火薬爆発図」が掲載されているので、幕府時代にも事故が起きていたことになります。この図は医学的にも爆発の影響を見る上で貴重なもので、二造(東京第二陸軍造兵廠)の印があるそうです。さらに圧磨機圧輪記念碑の近くには明治35年の火薬工場爆発の際の招魂碑も建てられています。
 さて、この圧磨機圧輪は黒色火薬を製造したのですが、それは硫黄と硝石と木炭を混ぜて作ったはず。そういえば中学時代に理科室でそれを混ぜようとした友人が、日頃は穏健な先生に烈火のごとく怒られたことがありました。
 閑話休題。一行はその後、加賀西公園を東側に出て板谷公園脇を進みます。この公園あたりは前田家の下屋敷だった当時に、風光明媚な池があった場所です。
 その公園の北側に広がっている野口研究所は、旭化成創始者が作った化学分析の研究所になっていますが、戦時中は弾薬などの性能試験が行なう火薬研究所でした。現在も建物や施設の多くが残されています。一行がその通用門から中に入って行くと、突然板張りの古い家屋が迎えてくれて、時代が数十年も巻き戻された感覚になりました。
★加賀西公園にある圧磨機圧輪記念碑は以前、別の場所に建てられていたのをここに移したものです。真ん中のお団子のようなものは、当時の陸軍のマークとのこと。
★野口研究所、当時の火薬研究所にあった古い板張りの家屋は、現在何に使われているかわかりませんが、きっと当時からあったものなのでしょう。
★火薬研究所の防爆壁と呼ばれている施設。その反対側で爆薬を爆発させて、その威力を測っていたようです。
タイトル横の写真は、大正11(1922)年に圧磨機圧輪記念碑が建立させたれときのもの。