区民講座初体験05

oshikun2009-12-25

 残された頭脳の断片
 建物と建物の間に、弾道管や防爆壁がひっそりと残されている場所を後にして、見学会の一行は敷地の裏手へと歩き出しました。ここにはまだ当時の建物が改修もされずにそのまま残っています。手前の一棟は内部が三分割されているのですが、なぜかというと内部で爆発事故が起きた際に被害を左右に広げずに、屋根へ向かわせるためだといいます。
 昨日と一昨日にアップした防爆壁も爆発の勢いを上に逃していました。横にそのまま伝わると、人的にも物的にも甚大な被害となってしまうためですが、建物の造りがそのまま危機管理のあり方を表現していたといえるでしょう。手前の部屋は窓が割れるなどして、すでに使われなくなってだいぶ経つようですが、残りの二つはまだ倉庫として活用されていました。また建物の間にも、さらに堅牢な壁があり被害の拡大を防いでいます。
 そして一行は野口研究所を出ると、その東に位置する加賀公園に入りました。ここはその名の通りに加賀藩下屋敷にあった築山の周辺を公園にしたものですが、その西側、つまり野口研究所に面する築山の斜面には、レンガで囲まれた構築物があります。ここがかつての火薬研究所の弾道管で発射された砲弾などの標的の跡、弾道管標的なのでした。しかしかつて加賀のお殿様が愛でた山を、そのまま実験の標的にしてしまうとは、なんとも皮肉です。つまりここはお殿様の屋敷の小山、軍事開発の標的、そして庶民の公園として、小さな山の姿のままに来歴を重ねてきたというわけです。
 この北には圧磨機圧輪を回す水力の源となった石神井川が流れて、南はかつて池や湿地だったために自然のバリアーとなっています。講座でいただいた昭和の初めの地図『大日本職業別明細図』によると、当時「火薬製造所」と記された範囲は、野口研究所の周辺の広い範囲、加賀藩下屋敷約22万坪のかなりの部分に広がっています。とうぜん築山を含み、北は石神井川をまたいでその先(つまり北区側)まで、東は省線を越える規模でした。のちにこの火薬製造所は「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」と名を変えるのですから、当然なのですが。
 今回見た野口研究所内の遺構は、開発という点で見ると、その頭脳であったといえるのかもしれません。
★野口研究所を行く見学会一行。敷地内はまるで公園のようだ。
★野口研究所の比較的新しそうに見える建物。しかし実際に建てられたのは大戦当時かもしれない。
★研究所裏手の古い建物。反対側は石神井川である。
★建物と建物の間にも厚い壁があって、爆発事故の際の被害の拡大を防いでいる。
★築山から見た野口研究所の敷地。見える道には電動貨車の線路が敷設されていたという。
★加賀公園の築山の斜面に造られた標的跡。とうぜん当時の弾道管の延長線上にある。タイトル横の写真は現在も残る弾道管。写真が撮れなかったので当日いただいた資料を複写しました。