区民講座初体験07

oshikun2009-12-27

 小さな石の大きな権力
 これまでは、何度か触れているように火薬製造所のちに第二陸軍造兵廠を、現在の野口研究所に残されている火薬研究所の遺構を中心に見てきました。と、かなり回りくどい書き方ですが、しょうがありませんね。軍事施設はそのときどきで名称が変更され、まるでアメーバのように周辺を飲み込みつつ拡大し続けたのですから。
 さて、その起源は後なのですが、板橋区の火薬製造を中心とした二造(第二陸軍造兵廠)に対して、弾丸などの製造を主とする一造(第一陸軍造兵廠)がこれからの見学ポイントです。ここでちょっと疑問となるのが、二造が加賀藩下屋敷の土地を利用したのと同様に、一造の敷地は何も使ったかということです。古地図などのサイトを見たのですが、ちょっとわかりません。ただの原っぱだったのでしょうか。
 ということで、頭の上に疑問符を付けながら、見学会一行は埼京線、かつての赤羽線を跨ぐ橋を後にします。広い下り坂をしばらく行くと、左の小道に入ります。なんだ、なんだ、こんなところに何があるの、と思うまもなくさらに車に2、3台停まっている小さな駐車場に入りました。駐車場は人で満員。そして説明員の指が示す方に目をやると、これまた30センチほどの四角柱の石が目に入りました」「陸軍用地標石」と呼ばれる今回で一番小さい史跡です。資料によると北区の約10パーセントは軍用地で、これは23区で一番高いものだったそうです。推測ですが、その広大な土地はかなり散らばってもいたはずで、それぞれに明確なフェンスなどを設営することが難しかったのでしょう。軍用地そのものにも「増殖機能」が備わっていたようですし。そんなことで、ここは軍のものだよ、ということを示すための印がこれだったのではないでしょうか。また石ひとつでかなりの自己主張をするという点では、軍隊の権威というか権力の象徴でもあったのかもしれません。
 この標石は説明員の話によると、あまり多く発見されていません。目立たないので、ふだん目にしていても、それが何であるのかわからない例もあるようです。かくいう今回の遺構も最近になって発見されたそうです。下の方はコンクリに埋められていて、陸軍用地の地の字が読めません。ともかくも車に壊されずに生き延びて、まずはよかった。
★壊されはしなかったけど、かなりの新しい傷が付いている陸軍用地標石。タイトル横の写真は昭和35年撮影の一造十条工場跡。戦後15年も経つのにあまり変化がない様子。ちなみに一造と改称されたのは昭和15年だから、終戦まではあと5年しか残されていなかったことになる。