区民講座初体験08

oshikun2009-12-28

 戦傷者と声とピアノの音
 昨日の陸軍用地標石ですが、考えてみれば戦後占領軍に土地が接収されたときに、無くなるはずですよね。それが残っているのは、やはり小さ過ぎたからなのかな。そもそも戦後は戦闘機も戦艦もみんなスクラップや標的にされて、平和憲法下「軍隊なき国家」として再出発したので、「陸軍用地標石」は、いわば憲法違反的存在で、昭和の激動期に潰されても不思議ではありませんでした。例えば次に見る建物の周辺で「激動」しているとき、これに眼を留める人は誰もいなかったのでしょうか。
 さて、その建物は名前をいくつも持っていることが表すように、歴史の只中に立ち続けました。最初の名前は東京砲兵工廠銃包製造所の本部事務所(1930年)で、それが東京第一陸軍造兵廠十条工場本部事務所となり、戦後、占領軍に接収されてからはアメリカ軍の保安司令部、技術センター、極東地図局、そして王子キャンプして有名な野戦病院となり、日本政府に返還後(1971年)の現在は、中央公園文化センターとして活用されています。
 かつてベトナム戦争で怪我をしたり病気となった将兵がヘリコプターで運び込まれた野戦病院は、それに反対する学生や市民に取り囲まれていたといいます。米軍の敷地内であるゲートから機動隊が出てくる写真を見たことがありますが、それなども当時の日米関係を卑近なカタチで表現したといえるでしょう。
 暖かな冬の日、かつてのそのゲート内に立って建物を見上げても、その情景を思い浮かべるにはかなりの想像力を必要とします。またここで死んでいった米兵のことなど別の次元の出来事のようです。
 玄関の階段にはよそゆきの服を着た5、6歳ぐらい姉妹が立って、写真撮影のポーズをとっていました。きっと中でピアノか何か発表会があったのでしょう。いつか彼女たちがこの場所の過去を知る機会があることを期待することにしましょう。★一造の本部、保安司令部、そして王子キャンプの野戦病院だった現在の文化センター。解説者の話によると、白く塗ってあるのはアメリカの慣習で中心となる施設を意味するのだそうです。
★実際にはレンガ造りなのは、壁をよく見るとわかります。
★こちらは裏手から見た文化センター。日本が造った建物なのに、なぜか星条旗が似合うそう。タイトル横の写真は、建物正面に彫られたエンブレムのようなもの。解説員にも、そのいわれはわからないとのこと。誰か知っている方がいらしたら教えてください。