柴又、記憶のうちに24

 やがて歴史となる7円切手
 子どもの頃、お年玉クジ付きの年賀状をチャックするのがとても楽しかった。
 いま年賀状は昔のようにたくさん書かなくなってしまったし、その日までにどこかに行ってしまいそうだ。いやいやその当選のチェックすら面倒な気さえする。ここ数年は切手が当たっても交換にも行っていない。
 しかしかつてのそれはイベントでもあった。その日、新聞が届くと社会面の隅の当選番号を見つけて、一等からチャックしていく。しかしほとんど、いや絶対に当たらない。そして何も当選しないままに最後に「年賀切手」のチャックとなる。二桁の当たり番号が3つか4つあったので、親の年賀状まで入れると、こちらは毎年何枚かは当たる。それを持って近くの郵便局へ駆けつける。
 書棚のどこかに隠れている切手のストックブックには、その頃のお年玉切手が何シートか入っているはずだ。
 今、書棚からストックブックを探し当てた。三冊あるそれには、やはり当時流行っていたテントウ虫のシールが貼ってある。お年玉切手のシートは1964年から1970年まで覚えのあるデザインで並んでいるのだが、1969年だけが見当たらない。たぶん柴又から草加に引っ越しをした直後だったせいだろう。
 このストックブックを開くといろいろと記憶が蘇えってくる。切手蒐集を始めるきっかけとなったのは、親戚からもらった1963年の「名神高速道路開通記念」切手だ。翌年の「東海道新幹線開通記念」切手もある。正方形の角を上下にした「オリンピック東京大会1964年」と記された切手には、1961年や1963年という複数の発行年がある。表記された「5円+5円」の+5円分はオリンピックの協賛金を何年にもわたって集めたということなのだろう。
 とまあ、5円や7円だった切手を見ていくだけでも日本近代史の勉強にはなる。残念なのは、昔の切手は高すぎるので、時代をあまり遡れないことだ。
 当時は切手蒐集が子どもたちの間でブームとなっていて、親の引き出しから古い切手を見つけたもらったり、小遣いを握り締めて切手専門店を訪れたり、は記念切手を買い求めてもいた。しかし記念切手は1枚か2枚だけ。郵便局員も子ども相手にほんとうにご苦労さんでした。彼らは私が求めた切手を丁寧に袋に入れてくれる。次の客はどどーんと20枚、30枚のシートを買っていく。しかしそれを見て、すごいとは思ったけれど、うらやましいとは思わなかった。
 郵便局の前には切手好きの仲間が集まった。自分の懐具合と切手のデザインの好き嫌いで、買ったり買わなかったりする。買ったヤツは買わなかったヤツに切手を見せて、買わなかったヤツはそれにコメントを付ける。
 しかし学校があるのに、どうやって郵便局へ行ったのだろう。不思議だ。★あの頃、記念切手を買った、柴又街道沿いにある郵便局。ところで隣のシャッターが下りているお店の日除けも、14や20の店舗とよく似た色になっている。やはり文房具店なのだろうか。これもやはり不思議だ。