佐々木譲さんを読む 05

 佐々木譲さんの連載が「コヨーテ」で始まっていた。
 現在店頭にある号で連載はすでに5回目である。譲さんファンとしては面目なしである。
 さてこの連載は、既存の旅行記を4ページ展開でイラストを交えて紹介する企画なのだが、実はそう簡単なモノではない。
 譲さんには『幻影シネマ館』という「幻影」なる「シネマ」を解説した本があるが、その伝でいうと今回は「思索」による「旅行記」の紹介であるといえようか。
 誌面では掲載ページか目次に小さく「fiction」と書かれているだけで、それさえ見つからない号もある。ゆえにその書物を手に入れたく、アマゾンに入力する人も多かろうと思う。とまあ、この辺は企画趣旨を無粋に表現したくないので、ちょっとわかりにくいままにしておく。
 「コヨーテ」は魅力的な雑誌で、私も既刊号を何冊が持っている。だが柴田元幸さんのオースターの新訳などは「楽しみ」過ぎて、「本棚」で熟成させたまま、なかなか目を通していない。
 ということで(どういうことなんだ)、エイヤと連載5冊分を買ってもいいのだろうけれど、今回は池袋の大型書店で、失礼ながらの「立ち読み」をさせてもらうことにした。ゴメンナサイ。ここではかなり買っているので許してください。
 さすがの大型書店、バックナンバーもほぼ揃っていたのだが、残念ながら40号だけは見当たらず、またいつかの出会いを期待しようと思う。もちろん単行本化されれば、速攻で買うのだけれど。
 で、やっと本題。立ち読みゆえに熟読とはいえず、あーだ・こーだと書くことは不謹慎かもしれないが、とにかくその快感のひとときを終えて感じたのは、「物語」の源泉の豊かさだった。本来数倍か数十倍の誌面で展開できる重厚なテーマを「惜しげもなく」イラスト込み4ページで消費してしまっているのだ。特に最新号の「オルカの海峡」では、観察する側とされる側というテーマが、男女間から人種間へと展開するあたりに舌を巻く。「評者」をして、いよいよ深淵なるモノに近づいたなどといったら失礼だろうか。
 もちろん以前からの譲さんの読み手には、なるほどと思わせる「隙間」も用意されている。「評者」自身が冒頭で自ら「彼の地」や「内容」との関係を明らかにしているのだが、読み手もまた今までの作品や「言説」との関連性を推察していくことになる。
 例えばリトアニアの回では、1990年のエスクアィアに掲載された「non−fiction」に思いが及ぶ(ここでは写真の才さえ披露している)。
 さらなる読み手の願いは、この20年の熟成を進めて、そこで取り上げた「旅行記」のように重厚な一冊の本に仕上げて欲しいということだろう。この連載がある意味、これからの作品の予告編であることを切に願うのだ。
 旅行記の場所は、ニューヨーク、リトアニア、バリ、トスカーナ(この回は未読)、カナダと続いた。さて、「評者」はこの後どこを訪れるのか。またまたゲスなことだが、読み手としての想像をたくましゅうしてみると、ハーグ、バスク、ペテルブルグ、クロアチア、そして小樽あたりかと思う。そしてその「物語」を妄想してみるのも、ディープな読み手の特権としてくれまいか。