『ミツバチのささやき』をささやく・補A

oshikun2010-07-28

1から3までのまとめ
 タイトルバックは映画を上映しているイラストをクローズアップして終わり、それを引き継ぐ形で本編が始まる。それはこの映画が映画=作り物であることの強調か。イラストは「フランケンシュタイン(の怪物)」の上映を表していることから、本編全体が「フランケンシュタイン」の反復、あるいは類似性を表現しているとみることも可能だ。
 本編冒頭で巡回映画のトラックが村に入ってくる。「まれびと」の到来であり、心躍る外への窓の到着である。
 村の入り口のフェランヘ党の紋章、これは映画の舞台だけでなく、映画すべてがフランコの支配にあることを意味する。製作された1973年、彼はまだ健在だった。
 時代設定はテロップによると1940年頃、つまりはフランコの支配が決定的になったあたり。だからなのか、村では青年層がほとんど登場しない。よって一層、集会所に来た数人のベレー帽の青年が不可思議。
 タイトルバックの映画上映イラストと村の入り口の紋章は、映画が内側に進んでいくことを示している。さらにミツバチの巣箱と屋敷の蜂の巣状の窓の格子が、ともに「蜜色」の光に満たされることで、主人公たちも蜜蜂箱の内側にいることが暗示される。
 映画の正式タイトルは『蜜蜂箱の精霊』。イザベルとアナの寝室での会話では、村はずれの住んでいるのが、お化けではなく、精霊ということになっている。この精霊と会うには、「私はアナです」と話しかければいいとイザベルはいう。それは個の独立、理性の確立・・・とするのはチト早いか。
 映画は内側に向かっているようでありながら、外側への回路も用意している。まずは巡回映画。テレビがなかった時代、動く映像はかなりのリアリティを持っていたはず。特に子どもたちには現実そのものに交じり合っている。ここでイザベルとアナの違いに着目しなくてはいけない。歳が近そうに見えるが、イザベルは映画が作り物であることを理解している。しかしアナにとってそれは現実そのもの。ここにアナの外側とのつながりが生じる。しかしもちろん映画は内側という側面も持っている。映画を内側の要素とするのか、それとも外側への興味の手段となるのか。彼女の外への眼差しは、このあとの展開のキーとなる。
 母テレサにとっては手紙を託す汽車が、父フェルナンドにとっては雑誌やラジオが外への回路である。しかし手紙が書かれるのも、雑誌を読み、ラジオを聞くのも蜜蜂の巣状の格子窓の内側、「蜜蜂箱」の中である。
 父の蜜蜂観測ノート(実際にはメーテルリンクの『蜜蜂の世界』の一節)は、自分たちの運命を表現しているのだろうか。ゆえに最後をペンで消す。アナのとっての精霊は「怪物」であり、父フェルナンドにとってそれは蜜蜂か。そして蜜蜂箱はフランコ体制の意味なのだろうか。