京都へっぽこ珍道中 その九

 さて、昨日の書き込みの不思議なカタカナを見て、なんのこっちゃという人が多いことでしょう。そして50歳以上の一部の人だけが、ハハハハと思ったかもしれません。
 そう、かなりわかりにくいけど、あれは「お座敷小唄」のイントロのつもり。
 昭和39年のヒット曲というから、ね、すごい昔だ。
 実はこの曲、今年の初めの頃にも、雪の積もった富士山の写真を掲載するときに、チラリと取り上げたことがある。
 その歌詞は「富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町(ぽんとちょう)に降る雪も、雪に変わりはないじゃなし、融けて流れりゃ、皆同じ・・」というもの。
 その先斗町とやらを、今日初めて見るのだ。夕食の場所は決まっていたから、ただ通り過ぎるだけだけど。
 しかし何んとも意味の深い歌ではないか。ネットで調べると、まさにお座敷小唄の名の通りに作者不詳とのこと。もちろんその深さは一番のみにいえることで、二番以降の歌詞は、ウィットに富んではいるものの、一番の荘厳さにはまったく及ばない。
 つまり富士の高嶺の雪と先斗町の雪を、まず雪という現象で相対化し、見かけの差異が価値に及ぶという一般的な見方を否定する。論拠となるのは水に還元されるという事実。
 ね、哲学的ではありゃしませんか。
 まあ、哲学の道を散策したゆえのこの珍説、お許しを。
 ちなみに前にも書いたけれど、この歌詞を私は子どもの頃、「富士の高嶺に降る雪も、今日ほんのちょっと降る雪も・・・」と間違えて覚えていた。意味することは同じなんだけどね。
 ということで本題に戻る。


 ツレはちょっと横道に逸れて、鴨川が見える場所まで来た。なんかそこは車をUターンさせるような場所だった。
 「あそこよ。ほらあそこなの・・・」
 彼女が指差す先に細い路地が見える。何の変哲もない路地だ。しかしそここそが京都のラビリンス、先斗町(ぽんとちょう)への入り口だったのだ。
 私はウサギを追いかけるアリス(形態はまったく違うけど)のごとくに、その迷宮へおっかなびっくりと興味津々をシャッフルさせながら入っていった。
 残念ながらまだ6時前だったので、その雰囲気は本領を発揮していない。意外にも清涼な空気がそこには流れていた。
 しかしながら、狭い道筋にびっしりと立ち並んだ店の数には圧倒される。それはまるで、空間があることが罪悪であると考える古代人のモニュメントのごとしである。さらにこの路地に交差するカタチで、さらに細い路地が毛細血管のように張り巡らされている。
 もしもう少し遅い時間、ほろ酔いかげんでここに迷い込んだとしたら、いったいどうなっていたことだろう。
 私たちはこの先斗町の「メインストリート」を一回通り抜けただけだった。でもそれは先斗町をまったく見てないことに等しい。
 そう、結局私はまだ先斗町を知らないのだ。今度、京都に来る機会があれば、できるだけ武装して、ゆっくりと近づいてみたいと思う。そう思わせる魅力が、ただ素通りするだけの先斗町にはあったのだ。
 先斗町を出る間際、ムッシュかまやつさんに似た人とすれ違った。彼はなかなか魅力的な女性を同伴していた。彼はきっとそのラビリンスの歩き方を知っているのだろう。いやもしかすると、迷い込むことこそ快感なのかもしれない。
 あっと、もうすぐ予約の時間になる。ええっと店はどこだっけ。