近くの旅客 03

(昨日の続き)
 さて、では電車の中で化粧をするというのは、どういうことなのか、について進めてみよう。まずは電車の中という空間を考える。
 しかしその前に、ちょっと押さえておかなければならないことがある。
 ここで簡単に電車と書いてしまった。それで東京近郊だけならいいのだけれど、列車などと書かれる長距離移動ツールや、あるいはローカル線は、普通、電車ではなく列車と呼ばれている。
 鉄チャンではないのでよくわからないのだが、電車とは、一輌ごとにパンタグラフで供給される電力により駆動するモーターを装備しているものであるらしい。それに対して、列車とは、蒸気機関車ディーゼル機関車などによって、後続の車輌を引っ張っていくもののようだ。
 そんな分類方法の是非はともかくとして、この「化粧」論議も、電車や列車の歴史性は地方性を、踏まえておかなくてはいけないと思う。少し面倒な話になってきたけれど、走りだしてしまったので、とにかく終点まではたどり着きたい。
 さて、昨日書いた「化粧の現場」も電車での出来事ではあった。ではそれが列車の中だったら、どんな感じなのかを、想像してみることにしょう。
 昔は、そしてたぶん今でも長距離の列車の旅といえば、駅弁が欠かせない。私の記憶でいうと、それほどの乗車時間でなくても、ボックスシートの列車に乗ると、お茶やミカンを親たちが買い求めていた気がする。今から30年か40年ぐらい前の話である。
 当時はたかだか1時間か1時間半ぐらいでも、移動の機会が少なかったからなのか、ちょっとした旅の気分を味わったものだ。
 つまりその短い旅の間、ボックスシートは日常とは別の空間となってくれた。車窓を流れる風景もそれを演出してくれた。
 つまりやや図式的にいうとすれば、列車の場合、A地点からB地点へと向かう行程の中でB地点とは見知らぬ場所であり、A地点から離れた瞬間に非日常は始まっているのだ。しかし電車の場合、A地点とB地点はともに日常の場所であり、その往復もまた日常に過ぎないのである。
 くしくも昨年の京都旅行の文章にあるように、東京駅から「のぞみ」が走り出した刹那、近くのおばさんたちは弁当の蓋を取ることができたのだ。それは列車の中が異空間となった証拠なのである。
(この項目続きます)