近くの旅客 07

(前回の続き)
 ポータブルミュージックプレイヤー(以下PMP)が一般化して、音楽を聞く環境を持ち運べるようになったということは、公共の場に個々人のパーソナルな空間が出現したことでもある、というのが前回までの骨子だ。
 そしてそれが電車の中の長年に渡って築かれてきた秩序、あるいは共同性というものに、チラリと触れることになる。さっきの公共の場というのは、歩道でも食堂でもいいのだけれど、今回は電車の中にしぼっておこう。
 でも、それじゃ本を読んでいる人は書斎を延長しているし、という反論もあるだろう。はい、それもまた正しいのです。しかし無意味に「チラリと触れる」ことはない。まずPMPの普及の勢いが早すぎたことと、PMPの利用者が聴覚を閉ざしていることがその要因となっていると思う。
 少し前に書いたように列車は、A地点からB地点への移動手段だが、Bはその移動者にとって非日常的な場所であるがゆえに、A地点を出発した瞬間に非日常空間に包まれる。もちろんその空間はたまに旅と呼ばれることがある。
 それに対して電車は、都心部での日常的な移動手段であり、当人にとってA地点からB地点への移動時間やB地点そのものが日常である。電車内はただ物理的な効用を得るために留まっていなくてはならない空間に他ならない。
 しかしそこは物理的に外部と隔絶しているだけでなく、移動していることで、その他との関係性を希釈させている。
 そして乗客は微かに気付いているのだ。密室といえる空間を他者と共有にして、かなりの速さで移動していることが、この空間の共同性を成り立たせているのを。
 数日前にツレから聞いた話。彼女は帰宅途中の電車の中で、急病人が出たのでしばらく駅に停車するとのアナウンスを聞いた。車内を眺めると、同じ車輌の遠い席で、お年寄りの男性が力なく席に横たわっていて、近くの4、5人の乗客が彼の身体を支えたり、シャツの胸の部分を緩めたりして、駅員が到着するまで、しっかり介護していたという。これも電車内空間の共同性のなせる業なのではないだろうか。そしてPMPはこの共同性にとって突然の異者だったのだ。(はい、まだ続きます)