近くの旅客 09

 はい、また(前回の続き)です。
 さっきツレがこのブログを読んで、自分が登場している箇所の間違いを指摘されてしまった(誤字を教えてもらうときは人知れずに直している)。
 1月26日の書き込みの、埼京線でお年寄りを介抱している人を見かけたというところだが、ご老人は車内ではなく、数人(5人ぐらい)の乗客によってホームのベンチに移されて、そこで介抱されていたというのだ。やがて駅員が来て後は自分たちが対応するといっている様子ただったが、介抱していた人たちはやや不安そうな面持ちでまた電車に乗り込み、やかで救急車のサイレンの音が聞こえてきたという。
 車内放送があり、また車内が騒然としたので、乗客はみんなそのなりゆきを注視していたが、ひとりポータブルミュージックプレイヤー(PMP)を聞いていた若者だけが、まったく何の関心も持っていないようだった、とツレはいった。
 そう、まさにPMPの使用者は、車内の共同性とは別の場所にいることが多い。彼らは車内に存在しながら、自身の感覚としては自分の部屋でくつろいでいるのだ。
 また横道に逸れるが、音というのは前にも書いた通り、人間という動物の自己防衛のための欠かせない情報である。視覚が限られた方向にしか効かないのに対して、聴覚は基本的に360度機能し、その発生源を判断することさえできる。
 だから電車に乗っている場合でも、その機能を全面的に遮断してしまうのは、私にとって恐怖なのである。この頃はまったくPMPを聞く機会がないが、以前よく使っていたときにもボリュームは外の音がちゃんと聞こえる程度だったはずだ。人々の話し声、車内アナウンス、電車のブレーキ音などなどが、自己防衛の情報であるとともに、本来本能的に安心を得るための必要な要素でもあるのだと思う。
 だから最近、PMPを使いながら自転車を運転している人を見かけたりするとき、よくぞ平気で走れるなぁと寒心してしまう。さらに助手席の人に迷惑を掛けたくないためなのか、クルマのドライバーがPMPをはめている。彼が事故を起こしていないとしたら、ただ運がいいだけなのだ。
 で、ホントは携帯電話の車内デビューについて書くつもりだったのだけど、また今度ということに。(ふぅ、続きますネェ)