近くの旅客 10

 印鑑証明や住民証を簡単に入手できる「区民カード」を探すために、土曜の半日をつぶしてしまった。このところ老犬のように、自分が「埋めた」場所を忘れてしまって、あたりをウロウロとすることが多い。そんな時、脳裏を流れるのは当然のことに井上陽水の・・・、あれっなんというタイトルだったっけ、「探しものはなんですか、見つけにくいものですか・・」という歌詞の曲、いままで「探すのをやめたとき、見つかることもよくある話で・・」というところに何度か精神的にもそして実際にも助けられたこと幾たびか・・・。
 あっ、思い出した。歌詞を続けて思い浮かべれば、やがてそれが出てくる。そう『夢の中へ』でしたね。
 ふぅ、そういうことで、どうにか物忘れ×2だけは避けることができた。
 さて、前の書き込みの続きである。
 携帯電話が現在のように普及したのはいつのことだっただろうか。仕事の仲間でそれに関心を持っているヤツがぼちぼち出始めて、チラシなどを眺めていたのは確か20年ぐらい前だっただろうか。
 自動車電話と呼ばれたり、コンバットに出てくる無線機のようだったりした時代はすぐに過ぎ去り、持っていない人が少数派となった頃、私もどうやらその多数派に転んでしまうこととなる。
 知人からなぜか本体をもらったのがきっかけだったけど、ヒデオやデジカメ、そしてパソコンのように、フツーの人がそれを最初に買うときは、それがいったいどんな役に立つのか、実際にはよくわからないままなことが多い、と思う。携帯電話もその類で、もし本体をもらうというきっかけがなければ、まだ何の機種を選んでいいのかという理由を盾に、もうしばらくは持つことはなかったかもしれない。
 当時はすでに電車の車内が、携帯電話でしゃべくる女の子に溢れていた。そのことへの不快感は、ポータブルミョージックプレイヤーから漏れ出すシャカシャカ音の比ではない。しかしどうしてそれが不快なのかはわからなかった。確かにかん高い彼女たちの声は、耳障りではある。でもそれをいったら、電車の騒音や乗客同士の会話の方が音量はデカイのだ。そんなことで、私はイラつきながらも、そのイラつきの原因が何なのか突き止めたかった。
 思い付いた仮説は、今まで書いてきた車内の共同性を乱す明確な異者として存在しているということだ。いや、こういったほうがいいかもしれない。彼らは乗車していながら、そこには存在していなかったのだ。(書き忘れていたけれども、もちろん続きます)