近くの旅客 11

 テレビドラマ『大聖堂』について、この前書いたけれど、一つ大事なポイントを忘れていた。それはジャックが持っていた父の形見としてのリングの登場だ。これは原作には出てこない。
 勝手な推測だけれども、ジャックの役割は原作とドラマではかなり違ってくるのではないだろうか。考えてみれば原作のトムやジャックの大聖堂への思いは、ドラマで描くことは難しい。その分、まさに「ドラマティック」な部分をコーティングするはずだ。まあ、ドラマはドラマとして楽しむことにしよう。
(ところで2月5日の続き)
 えーと、そう電車内環境の話の続き。今まで書いてきたこととダブるかもしれないけど、おゆるされませ。
 今までの電車内の異者といえば、ポータブルミュージックプレイヤーの使用者であり、彼らは車内を擬似的に自分の部屋であるかのように振舞った、あるいは振舞っているように他者に感じさせた。
 普通なら彼らは他者に直接的な迷惑を掛けないので、心地よき車内の同胞ではないにしても、存在そのものは他者も認めるにやぶさかではない。しかし少しでも「迷惑」が「漏れてくる」とその微妙なバランスは突然崩れ去る。それがヘッドホンから零れてくる音。
 しかし車内の人々はそうとうなものでない限り、無視することする。しかしその使用者は当然、車内の運命をともにする同胞ではないことになる。
 そしていよいよ携帯電話が登場する。
 携帯電話の普及が加速度を増したあたりで、電車の車内は通話の無法地帯になった。ポータブルミュージックプレイヤーの使用者が、擬似的に別の空間と繋がっているのに対して、携帯電話の使用者は、まさに実際に別の空間と繋がっていた。その外部との接触という優位性は、車内のゆるい運命共同体的な空気感を乱すものだった。それはそれを担った若年女性たちのかん高いトーンの声により、さらに車内の他者の不快感を増大させる。
 二人の女性の車内での会話は、それが極めて大きな声でない限り、誰も目くじらを立てたりしない。外部と通じていることこそが問題であった。
 しかし時代の趨勢は皮肉なもの。車内マナーが車内ルールとなって、その使用を遠慮するようにとの車内アナウンスが繰り返される前に、キンキン声で車内の顰蹙を一手に集めていた層は、会話からメールへとその携帯電話の使い方を変化させていった。ところが、このキンキン声による車内通話の一般化とその「禁止」は、また別の変化を車内にもたらすことになる。
 (はい、続きます)