「午後」そのあとに

 地震の日の翌日から自分のマンションに帰った。
 地震の日に一瞬だけ見た限りでは書斎の棚が倒れているだけだったが、さらに奥に進むと、CDや文庫本、新書本の棚が倒れていて、それらが散乱しているので、床に足を踏み入れることができない、ということはすでに書いたとおりだ。
 しかし幸いなことにツレが管轄している食器棚や寝室のいろいろ、それにキッチンの細々としたものは、不思議なほどに無事だったので、いちおう生活するには困らない。ただソファに座っていて、振り向くとCDケースの海というのは精神衛生上好ましくはないし、書斎のパソコンには、床の本やらなにやらをラッセルしてたどり着かなくてはならなかった。何よりまた余震があれば、さらに大きな本棚が倒れてくるかもしれない。そんなわけだから、とにかくブログに生存確認の書き込みだけは、ちょっと身をよじりながら打って、しばし書斎は封印することにした。
 25階までの一往復半で、足はパンパンである。正直いってトイレで屈むときがつらい。さらに階段を降りるのが一苦労。また大きく揺れても、11日のように25階を駆け下りるのは、無理だ。そして12日の夜と13日の夜が過ぎて、ふと思った。
 余震のグラグラや福島原発のドカンにビクビクしながら、東京に居続ける必要なんてないのではないかと。
 14日のホワイトディなど柄ではないが、それでも南浦和のウナギか恵比寿のワインぐらいはプレゼントしようと思っていた。それが旅行に代わってもいいじゃないか。そうツレに相談してみるとガゼン乗り気。目的地は沖縄。彼女も現在休みを取れる状態なのだ。
 そして14日の朝、手っ取り早く出掛けたいのに、ツレはまるでヨーロッパに一ヶ月ほど滞在するぐらいの荷物をまとめている。そうこうするうちに強い地震があってマンションがキーキーと音を立てた。たいした震度ではないのに、やたらと音がでかい。そして福島の3号機が吹っ飛んだ。
 ややあって、事前に連絡していた赤羽の旅行社に行き、航空券とホテルを予約。むむむ、高い。しかもその日だけは、交通機関がちゃんと動いているかどうかあやしかった。大幅に余裕をみて、午後6時過ぎの便にする。那覇に着くのは夜遅くなので、初日は市内ビジネスホテル、ロコアナハに宿泊、翌日からは本島を北上してブセナ・テラスに泊まる。小心者は価格を見て目玉を落としそうになった。
 いざ出発すると意外にも電車はスムーズだった。赤羽から京浜東北線で浜松町、そこからモノレールで羽田へ何の問題もなく到着する。予約を入れた前の便の4時出発に間に合うので、チケットを換えてもらう。そのカウンターでやっと気づいた。
 私は地震原発が嫌いなのだが、それと同様にヒコーキに乗るのも嫌いだったのだ。