物語の防波堤

oshikun2011-04-05

 このところほとんど本を読んでいない。まあ、昔からガツガツと読む方ではなかったのだが、それでも地震以降の「読字量」の少なさは異常だ。
 腹が食物の必要を訴えるがごとく、脳味噌も文字を通過させてくれ、とガンガンいってくるかと思ったが、その兆しはあまりない。
 どうしてなのかと、風呂に浸かりつつ考えた。そしてそのお湯の揺れの中で、気がついた。
 そう、それは3月11日の午後、あまりに大きな物語に触れてしまったからではないだろうか。マスメディア、特に映像メディアによってもたらされたそれは、すさまじい物語を内包している。その実存を前にして、つかの間、紙で表現した物語を眺めても、ふと視線は浮かび上がり、脳の中に刻み込まれてしまった、大きな物語の残像に心が向かってしまうのだ。
 9.11以後と以前とが2001年に多く語られたと同様に、いま文字表現の中で、3.11の以前と以後の語り口が論議されることがあるかもしれない。いや、きっとあるだろう。
 しかも地震津波は、原発の危機という現象を生じさせた。いま天井から吊るされた剣が揺れている。それを支えるものが果たして剣の重さを支えるほどのものなのかどうか。それは一人ひとりが自分の知恵を十全に働かせて、感知するしかない。

 そしてまた不思議に思うのは、至近なことである。今回の地震で倒れたのはなぜか物語の本棚だった。書斎ではほぼ小説の単行本を収めた棚が倒れ、居間では文庫本の棚が新書本の棚を道連れに倒れていた。そのほかの雑誌や図録の棚、映画評論やエッセイ、その他もろもろの本棚は、ほぼ被害を免れていたのに、である。
 今度のこと、地震津波、そして原発による全般的な危機は、一般的にもそして私の住居的にも、物語を黒く暗く覆いつくしてしまったようだ。はたして、このベール、取り去ることができるのだろうか。
★タイトル横の写真は、書斎を居間から撮影したもの。何がなにやらわからなくなっている。黒い枠が小説本を載せていた本棚。よく見えないけれど、写真上部にもうひとつの棚が倒れていて、イラストのカバーの百科事典の向こうにパソコンと机がある。