砲台場の記憶

 ホームに入所している父から電話があった。
 今日は6月の第一日曜日だと、唐突に彼はいう。不思議に思って、そのまま聞いていると、今日は品川神社のお祭りなのだそうだ。最初はその神社がどこにあるかわからなかったが、話の内容と慌てて取り出した地図を見て、それは偶然にも学生の頃、学童クラブのアルバイトで子どもたちを連れていった神社だということがわかった。
 そのことを父に伝えたがあまり関心はないようで、話は一方的に続く。品川神社は実はふたつあって、海に近い方からはこの日、お神輿が海に入るという。
 昔、父の家は品川区の中延にあって、母の住まいは御殿山にあった。そうあの御殿山ヒルズの近くだが、その当時は木造の長屋だったはずだ。
 父は終戦間際、20歳のときに仕事で中国東北部満州に渡っている。東京を発ったのが昭和20年の6月の第一日曜日で、東海道線の汽車の窓からこの品川神社のお祭りを目撃したというのだ。焼け野原になっている東京でも、まだ祭りは行なわれているのだなぁ、と感慨に浸りつつ、彼は西を目指した。
 父は下関近くの港から釜山へと出航したそうだ。きっと下関だとアメリカの艦船に狙われる可能性が高かったのだろう。実際、乗客はみんな救命胴衣を付けたままで過ごしたという。その船は二隻の巡洋艦に護衛されていて、無事釜山に到着したが、いっしょに出て彼の荷物を載せた貨物船は、潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。結果、仕事の道具や簡単な家財道具、冬服などがないまま、ハルピンに向かうことになる。
 しかし着いて2ヶ月もしない頃、ソビエト軍の侵攻が始まる。荷物のほとんどない一人身の父は、先に逃げ出した日本軍に続いて脱出することにした。貨物船の沈没が幸いしたことになるのだろうか。その混乱する街角で、彼は軍の肩章が道端に落ちているのを見ている。そして停まってばかりいる貨物車に乗って、黄色く広がる中国のトウモロコシ畑を眺めた。そして他の人といっしょに汽車を降りてはそれに齧りついたそうだ。
 同行者は平城に着けば大丈夫という。しかし着いてみるとそこには何もなかった。彼はまた貨物車に乗り込んで、釜山へと辿りつく。目指すのは下関。しかし海には機雷が数多く浮いている。
 それでも父は9月には中延の家に帰ることができた。もし出発が少しでも遅れていれば、もっと遅くなるか、あるいは帰れなかったかもしれないという。父が帰ってきたのを玄関先で見た祖母の話によると、まるで幽霊がそこに立っているのかと思ったほど、ボロボロだったそうだ。
 品川神社のお祭りは戦後も同じように続いている。父は職場で知り合った母と昭和20年代の前半、何度も品川神社に出掛けている。
 今、お台場はどうなっているんだ。昔話の途中に父の質問が入る。お台場と普通にいうと、フジテレビや観覧車のあるレジャースポットのお台場となるが、彼の場合は砲台場としてのお台場だ。彼の祖父、つまり私の曽祖父に父は船で台場に連れて行ってもらったと話す。昔は台場のあたりが海水浴場だったそうだ。地図を見て、一つはしっかり東京湾に浮かんでいて、もう一つは一部が陸とつながり歩いていけるし、レインボーブリッジから眺めることもできる、と伝えた。
 すると父はあれは江川太郎左衛門が造ったんだよな、という。彼のことを知っているとは意外だった。そこで佐々木譲さんが「英龍伝」という小説を書いていて、そのうち本になると私はいった。話はそれから榎本武揚に続き、五稜郭へと旅するがそのあたりは割愛。
 品川神社の近くには花街というか遊郭があって、そこで働く女の人はみんな冷害に苦しむ東北から出てきた人ばかりだったと話は脱線しかかる。そんな人を身請けして奥さんにした人が、会社に二人もいるという。父はその名前まで覚えていた。彼がそこに行ったかどうかは聞かなかったが。
 あの頃、品川は今よりもずっと海に近く、よく小船を借り切って遊びに出掛けたと、話は展開する。そこで私の記憶とリンクした。かなりはっきりとした情景として、私は小さな堤防から板伝いに海へと下りていくと、そこには簡単な屋根が付いた船に着いていた。そして家族や父の同僚といっしょに小魚を釣りに出港する。釣り上げた魚は船頭さんがさばいてくれて、小さなてんぷらになる。その熱々を私は頬張る。記憶にはてんぷらの匂い付きである。
 今回の父の電話でその小魚が たぶんハゼであることがわかった。父が話している間、彼の頭の中にある情景にはいつも母がいたに違いない。先週の金曜日は母の8回目の月命日だった。